あの騒動から次の日。夜に遅くまで残って店は片付けてしまった。
レティの心を思いやったジョアンが、「明日は休みなさい」と言ってくれたので、今日は仕事がない。どのみち今日はドアの修理や壊れた備品の調達もあって、殆ど営業にならないだろう。
朝、買い物に出掛けたレティは、街を行き交う人々の中にあの深紅の背中を見た。彼は、腕に抱きつく艶かしいオーラと体つきをした美人を連れていた。なので声をかけずに、遠くから再度のお礼の気持ちに軽く会釈するに留めた。
家に戻り、買い物の中身を冷蔵庫に入れた後、部屋の掃除をし済ませて洗濯物を外に干す。それも昼二時すぎには終わってしまい、暇を持て余す形になってしまった。
本を読んでいたけど、いつものように集中ができない。暫くしてため息をつき、栞を挟んで本を閉じた。
気がついたら考えてしまうのは、昨晩の彼のこと。見かけない服装に顔。島の住民でないことは、一目瞭然だった。
彼は何者で、何をしにここに来ているのだろう。そう考えながら、あの美人な女性といる所を思い出して、心がチリチリと変な気持ちに煽られた。
(私には関係のないことだわ)
本を棚に戻し、レティは外に出た。木々が作る日陰の道を歩きながら、お気に入りの場所である岬に向かった。
***
昼過ぎに宿の床で目覚め、街に出た。どこに行ってもだいたいそうなのだが、化粧と香水をこれでもかと鼻を塞ぐくらい撒き散らした女が、必ず声をかけてくる。気が乗れば誘いに乗ることもあるが、今回はそうでもなかった。
「あらーん。いい男ね、お兄さん」
赤いロングジャケットを羽織った男は、暫く無視をして歩くが、腕に絡みつく女がひっきりなしに話しかけてくる。彼女達も仕事なのだし、致し方ないと言えばそうなのだが。
どうやら離れてくれそうにないので、歩みを止めた。
「聞きたいことが有るんだが」
「ウフフン。何かしら?」
鼻から出した声で笑い、女が甘えた上目遣いを寄越す。
「この島で、美しく響く歌を聞いたことがないか?何者かが知りたい」
自分に関する問いではなかったため、女の顔がつまらなさそうに歪む。
「し……知らないわ。歌がお好み?だったら、アタシの働く店もあるわよ」
思い当たりがありそうな顔をするのだが、教える気はなさそうだ。
(埒があかないな)
男は女が有益な情報を話さないと悟り、腕を軽く振りほどくと高く上げた。
「悪いな。俺が探しているのは、そういう歌じゃない。誘いは他を当たってくれ」
もうっ、と不満の声を上げた女は、ようやく諦めたようだ。街にいては、またこのような別の誘いに遭いかねない。少し街から離れた場所に行くことにした。
街路樹とは別の木が集まる方へ足へ向けると、道は少し坂になっていたが、木陰の涼しさで歩くのには丁度良かった。十分ほど歩き、平らになった道に差し掛かった時、繁みから野良猫が出てきた。
餌を持っていたらあげたかもしれないが、生憎持ち合わせがない。なので一定の距離をおき、猫が進む方向を真似てついていくことにした。ある地点につき、猫はピョンピョンと跳ねるように走り出し、岩の上に座った。
その先に岬があり、先端に近いところに人が立っていた。見覚えのある後ろ姿。
アプリコットブラウンの髪と、花模様の白いワンピースが、風に遊ばれて軽やかに揺れている。彼女は座り、そして何かが聞こえてきて、男は足を止めた。
歌詞もない、けれど聞き覚えのある歌声……。控えめな鼻歌程度のものなのに、天使を思わせる透き通った響きが耳に心地よく入る。海の上で、途切れがちに聞いたあの声と曲。
(彼女だったのか)
***
歌声を出した瞬間、小さいつもりでもどうしても自分を嫌う人々の耳に届いてしまうから。
レティは靴を脱いで岬に座り、足をブラブラさせ、海を眺めながら鼻歌を出した。歌を歌えば悲しいことも忘れていられる。だから歌う。暫く経った頃、背後でガサリと音がして、身体の向きを変えて立ち上がった。
「ごめんなさい、私……っ」
島民が叱りに来たのかと思ったのに、今回は違った。
そこにいたのは。
深紅のロングジャケットを肩に羽織った、片目が眼帯の男。新しい記憶のその人。
「……っ!貴方は……」
いつ来たのだろう。膝を立てて座っていた彼が、立ち上がった。
「邪魔して悪かった。静かにしているつもりが、つい。驚かせてしまったな」
「いいえ……」
レティは両手を組み合わせ、緩く頭を振った。
「数日前も、同じものを耳にした。君の声だったのか」
「すみません……」
俯いたのを見て、彼が不思議な顔をした。
「なぜ謝るんだ?」
「その……この歌は……、島の人にあまりよく思われていなくって。本当は歌わないように言われてて……」
「勿体無い奴等だな」
フン、と鼻で少し笑いながら彼が言った。
「え……?」
「俺が海の波に紛れながらその歌を聞いた時は、毎日でも聞きたいと思ったがな」
「ありがとう……ございます……」
ジョアン以外に、自分の歌を受け入れてくれる人がいると思わなかった。レティの頬が、嬉しさにほんのり桃色へ染まった。
「あの、……宜しければここで立ち話をするのもなんですから、うちにいらっしゃいませんか?」
レティの誘いに、深紅の男がいたずらっぽく笑う。
「いいのか?」
「?……はい。狭いですけれど、どうぞ」
「いや、そういう意味じゃ……」
男は頭に手を当てて下を向く。レティが首を傾げた。
(鈍感か)
心の中で、男は観念したように笑う。そして顔を上げて頭を振った。
「もういい。今のは忘れてくれ。行こう」
彼が歩き出したので、取り敢えずレティもそれを追った。
***
それは本当に小さな木造の家だった。二部屋あり、一つはキッチンと小さなテーブル一つに椅子が二つ。奥は寝室で、ベッドと窓際に机と椅子。そことは別に、浴室とお手洗いがあるだけだ。
「どうぞ。今、ジャケットをかけるハンガーを持ってきますね」
「いや、いい。椅子にかければ済むことだ」
椅子を引き、それから奥へ向かおうとするレティを男は軽く制した。言葉通りにジャケットを椅子の背に掛け、腰を下ろした。
「お茶を淹れますから、待ってて下さいね」
冷凍庫を開けて二つのグラスに氷を入れる。続いて電気ポットからティーポットへお湯を注いだ。ふんわり甘い香りが部屋に広がる。コーヒーともただの紅茶とも違うようだ。彼女は透明ブラウンの液体をグラスに注いだ。トレーに乗せて運んだグラスを、レティは男の前と自分の席に置く。
「どうぞ。アイスティーです」
「この匂いはただの紅茶ではないだろう?」
「ストロベリーティーなんです」
その答えに、香りの理由に合点が行った。トレーをキッチンに戻し、それから直ぐに席につくと思われたレティは、一度キッチンの側の玄関に向かう。靴箱だと思わしき棚の上に乗った写真へ、笑みを向ける。そこには、微笑む一組の男女がいた。
「お父さん、お母さん。ただいまです」
レティはそう呟いてから、テーブルに戻った。
「あの写真は両親か」
「はい。私が幼い頃に、二人とも海が連れ去ってしまったんです。あの写真はジョアンおじ様――えと、昨日の酒場のマスターがくれたんです。だから今は、こうしてあの写真が見守ってくれてるって思って、暮らしています」
「そうか」
「改めまして、昨夜はお助けいただいて、ありがとうございました」
「気にしなくていい。あれは俺と奴等のケンカだ」
「そう言われてもやっぱり――」
「それに美味いものは、きっちり頂いたからな」
テーブルに頬杖をつき、からかいのつもりでレティを見たが、自分の思うような反応とは全く違って、嬉しそうに笑っていた。
「ありがとうございます。お酒とお料理を褒めてくれてたって、おじ様に伝えておきますね」
「……あ、ああ……うん」
彼女は、美味な飲食を褒められたと受け取ったらしい。お礼まで言われ、彼は右上に視線をあげた。ため息だけはどうにか噛み殺す。
(鈍感度が濃いな)
その男の内心を全く理解していないレティは、再び喋りだす。
「そう言えば昨夜お世話になったのに、まだ自己紹介もしていませんでしたね。私、レティアーナと言います。おじ様からは、レティと呼ばれてます。恩人様、良かったらお名前をお伺いしても……?」
「リックだ」
「リック様……」
大切な言葉であるかのように、レティは深紅の男、リックの名を口にした。それから、冷たいグラスに両手を添えて訊ねた。
「リック様は、この島に最近いらしたのですよね?お顔に見覚えがないので、そう思っていたんです」
「ああ、そうだ。色んな所を巡っている」
「そうなんですか?とっても素敵です!私も成人したら、ここを出て、外の世界を旅するのが夢なんです」
「別に成人を待たなくても、旅くらいできるだろう?」
「いいえ。せめてあと三年、成人するまでは、愛情込めて育ての親になってくれた、おじ様のお手伝いがしたくて」
「……そうか。外に行くって、目的地でもあるのか?」
レティはコクリと頷いて、視線を玄関の写真立てへと向けた。
「両親の住んでいたところを見てみたいんです。私、あまり二人の記憶がないので……」
数えるほどにしかない記憶。その中でもよく覚えているのは……。
「昔、住んでいた家だと思うんですが……。そこで母がピアノを弾いていました。それも一曲しか覚えていなくて、忘れないように、たまに歌っているんです」
(両親を奪った筈の海を見ながら歌うのは、海を見ていると言うよりも、その先の家族が住んでいた、何処かの地に想いを馳せてか)
リックは海を見つめるレティの後ろ姿に、哀愁が漂っていた理由を悟った。同時に疑問が沸く。
「その曲が、どうして歌うことを嫌がられるんだ?」
曲名が思い出せないのだが、聞いたことがある。特にどこかの故郷の曲と言うわけでなく、恐らくメロディーそのものを耳にした者は、他にも多くいるだろうと思った。
「それ……は……」
レティの視線が写真から手元のグラスへと移る。その表情、瞳は曇って哀しみに溢れていた。何かを考えていたようだが、直ぐに顔を上げた。
「お話しすると長くなって、……えっと……それから、きっと貴方のお耳を汚してしまいます……」
努めてやんわりと少しの笑いを浮かべて言う彼女は、微笑んでいると言うのに、泣くのではと懸念させた。
(これ以上突っ込むのは酷だな)
レティ本人から聞き出すのは無理そうだと判断したリックは、話を変えた。
「もう一つ、聞きたいことがある」
「はい。何でしょう?」
レティは表情から悲しみを消し、首を傾げた。
「もし、外で自由に歌えるきっかけが与えられたら、今すぐ島を出るか?」
「……えっ?」
長い睫毛がパチパチと上下した。それから丸い藍の瞳がリックを映す。
どう言うことなのか、何を言われているのか考えているのだろう。顔を見ればそれが分かる。彼女は一生懸命考えているようで、すぐに答えなかった。
(やはり鈍感か)
こう何度も同じことを思わせられて、レティに悟られない程度に笑う。なので、彼女にも分かりやすく言った。
「俺のために歌え」
「あ、はい。時間のあるときにでしたらいつでも……」
「そうじゃない」
リックは頭を振り、右手で待ったをかけてレティの言葉を遮った。
「契約をしよう。歌うことを我慢しなくていい、外の世界へ連れていってやる。俺について色んな所を回れば、故郷にも辿り着くだろう。その代わり歌いたいとき、俺が望むときは俺のために歌え」
「でも」
「心配するな。やれない理由……枷になっている足止めの理由は、こちらで何とかする。だから純粋に、『俺についてきたいか否か』を考えろ」
(そんな、急に言われても……)
眉尻を下げて困ったような表情をするレティ。リックはそんな彼女のグラスを掴んでいた白い手首を取り、細い指を自分の手の上に乗せた。
「今この場で答えを出せとは言わない。……そうだな。明日一日考えておいてくれ。明後日の朝、迎えに来る」
リックはレティの指先に一瞬、軽く唇を乗せてすぐに離した。普段は血色の悪いレティの青白い頬が、真っ赤に染まった。そして口づけを受けた指先がふるっと小さく震えたのが分かった。
「いい返事を期待してる」
レティの手が、温もりからスルリと抜けて解放される。同時にリックが立ち上がった。
「じゃあな」
客人を外へ見送るのも忘れて呆然と立ち尽くしていたが、ドアが閉まった後で我に帰り、レティは外へと走る。
(リック……様……)
夕陽の染め上げるオレンジの景色の中、徐々に遠くなる深紅の背中。昨日と同じように見えなくなるまで見つめていた。胸の上で両手を握り合わせたまま。