風の気配が、がらりと変わった。枯れ草が、擦れ合う音すらも粘つくように聞こえる。地に満ちる瘴気が、皮膚を這い、息をするたびに肺腑(はいふ)に忍び寄るような重さがあった。カズマは、思わず鼻をつまみたくなるその異臭に、息を浅くした。
そこは、古より「毒野(ぶすの)」と称される地。かつては肥沃な大地であったというが、今は命の気配も途絶え、黒ずんだ土と腐りきった木々が、荒涼と広がっているばかりだ。
「この辺りの空気は、人の身では数分と持ちません。……あなたとて、油断は禁物です」
葦原姫が、手にした御幣(ごへい)を静かに振るう。清らかなる結界が張られ、纏わりつくような瘴気の流れが、わずかに和らいだ。
「ありがとな。でも、大丈夫。……今の俺には“神気”がある」
カズマの指先が淡く光を帯び、天叢雲剣の刀身が、薄く蒼白(そうはく)に輝いた。山の神より授かりし祝福……神気。それは彼の魂の奥底で確かに生きており、毒野に満ちる瘴気すらも弾く、確かな守りとなっていた。
その時、足元の地面がぬかるみ、ぴちゃりと何か悍(おぞま)しいものが蠢(うごめ)く音がした。見れば、粘液に溶けたような獣の死骸が、黒い泥の中に沈んでいる。
「……くそ、気持ち悪ぃ……」
「この一帯は、すでに“毒蛇”の領域。その瘴気が、土地そのものを腐らせております」
アメノトリフネが枝から飛び降り、くるくると羽ばたきながら言った。
「それだけではありませぬぞ。近隣の村々では、井戸水に毒が回り、数十人が命を落としたとか。これはもう……国を揺るがす災厄ですな」
「だったら、急がないと……!」
カズマは、天叢雲剣に手をかけ、生い茂る枯れ木の奥へと、躊躇(ためら)うことなく踏み込んだ。
すると、ぴたりと空気が止まる。
枯れ木の影から、鈍く光る目がふたつ……否、四つ、六つ……いや、八つ、と、おぞましく現れた。
そこにいたのは、一本の蛇ではなかった。
無数の毒蛇が集い、重なり合い、蠢きながら一つの巨大な躯(むくろ)を成す、それこそが、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の“第二の首”だった。体長は先の火蛇よりも短いものの、その幅は倍以上。複数の毒蛇が絡み合ってできたその身体からは、腐臭と瘴気が絶え間なく溢れ出し、周囲の空気を歪めていた。
そしてその巨体の中心には、一つだけ異様に長い“首”が鎮座している。紫に濁った目を光らせ、カズマを睨み据えていた。
「こいつが……“毒蛇”か……!」
カズマは剣を抜く。その瞬間、毒野の空気が悲鳴を上げるように揺れた。
毒蛇が、吼(ほ)えた。
その咆哮は、耳ではなく、直接肺腑を刺し貫く。カズマは思わず口元を覆いながら、大きく跳び退いた。
目の前の“毒蛇”は、幾百もの毒蛇が一つの忌まわしい意志に束ねられた集合体。その躯(むくろ)の隙間からは、どろどろに崩れた肉の塊が滴り落ち、踏み締めた地面を、見る間に黒く変色させていく。
「こいつ……火蛇よりもずっと厄介だな」
「瘴気のみならず、あの体内には無数の猛毒が満ちているはず。万が一噛まれては、回復すら間に合いませぬ」
葦原姫の警告に、カズマは深く頷いた。
「……なら、噛ませる前に斬るだけだ」
右手に神気を集中させ、天叢雲剣を横薙ぎに振るう。斬撃が風を裂き、目にも留まらぬ速さで毒蛇の鱗へと迫ったが。
刃が、肉に到達する寸前で、ぴたりと止まった。
「なっ……!」
毒蛇の鱗は、鋼のような硬さではなく、“粘り”で剣を殺したのだ。それは毒によって変質した、ぬるりとした不気味な防壁だった。
「剣が……滑る……!」
その隙をついて、毒蛇の尻尾が唸りを上げて振り下ろされる。
「くっ!」
カズマは辛くも跳んでかわすも、その凄まじい風圧で体が大きく弾かれた。地面に背中を打ちつけ、視界が一瞬、激しく揺らぐ。
立ち上がる暇もなく、毒蛇が迫りくる。カズマは咄嗟に神気を両手に集中させ、天叢雲剣の刀身に沿わせるように纏わせた。
「いけるか……っ!」
次の一撃、神気を纏わせた斬撃が、再び毒蛇の躯体に当たる。
その瞬間。
“ぬめり”が、焼けた。
蒼白の神気が、毒の膜を焼き切るように浄化し、鋭い一閃がようやく肉へと到達した。
「……通った!」
叫んだ瞬間、天叢雲剣が激しく脈動する。蒼白の輝きが刀身を包み込み、カズマの心に直接語りかける声が響いた。
『汝、瘴気を斬りし者よ。第二の封印、いま解かれん』
剣に、新たな文様が刻まれる。それと同時に、毒蛇の主首が大きく動いた。咆哮とともに、悍(おぞま)ましく口を開け、真っ黒な霧を吐き出す。
それは毒そのもの。吸えば肺が腐り、浴びれば肌が爛(ただ)れる、純粋な「死」の吐息だ。
「
カズマは深く剣を握りしめ、胸の内から湧き上がる神気を、臨界まで高めた。
「
その一撃は、風のように静かで、雷のように速かった。黒い霧を裂き、瘴気を一瞬で払う浄化の一太刀。主首の鱗が裂け、黒い血が勢いよく噴き出す。
暴れ狂う毒蛇の巨体が地をのたうち、破れた躯の隙間からは無数の小蛇が這い出していくが、どれも神気に焼かれ、黒い煙を上げて崩れ去った。
「もう一度だ……!」
カズマは跳び上がり、主首の首筋を狙って渾身の一撃を叩き込む。斬撃は深く食い込み、骨に届いた確かな感触があった。
毒蛇は、最期の呻きと共に、その巨体を大きく震わせた。そして、音もなく、毒野の地に伏した。死に際に放たれた瘴気も、カズマから放たれる神気の風によって、跡形もなくかき消されていく。
数分後。
辺りの空気は、毒野に満ちていた腐臭が嘘のように引き、土がほんのわずかに、本来の色を取り戻しつつあった。
「……終わったのか」
「はい。毒蛇の力が消え去った今、この地は徐々に癒やされていくでしょう」
葦原姫の言葉に、カズマはほっと安堵の息をついた。
天叢雲剣の刀身には、二つ目の封印が解かれた
「……これで、二首目か」
「ですが、まだ六つ、残っております」
「ああ……でも、やれる気がしてきた」
疲労の色を隠せない顔で笑うカズマを見て、姫もわずかに微笑んだ。その瞳に、ほんのわずか、哀しみの色が滲んでいることに、カズマはまだ、気づいていなかった。