先程暴風の中で見たのが白い修道服だったのだと、この時初めて思い至った。長い銀髪の背の低い女で、目の前で泡を吹いて気絶している男をスイと見下ろし、ふぅと息を吐いている。
何だあの女は。危険人物か。
瞬発的にそう思うが、俺は騎士だ。相手が鍛えているかどうかは見れば分かるつもりだが、少なくとも俺の目には、あの女がこれだけの事ができるような猛者には到底見えな――。
「こぉら、アイーシャァァァァーッ!!」
遠くの方から、誰かが大声を上げた。
声の方を見てみれば、中年の男がこちらにズカズカと歩いてきている。女と同じ白地の修道服に、遠くからでも分かるほどの豪奢な金糸の刺繍。
どう見ても女より偉い立場だ。そんな男が目に見えて肩を怒らせているのに、女の方はニコリと微笑む。
「あら、ヒスドルト枢機卿。どうしたのです? このようなところで」
「『どうしたのです?』ではないわぁ! お前はまったく、いつもいつもいつもいつも……! せめて被害は最小限にしろと、何度も言っているだろうが!」
毒気を抜かれるやり取りに、俺の混乱はさらに深まる。が、次の言葉は、聞き逃せるようなものでなかかった。
「だって仕方がないじゃありませんか。それこそが神のご意思なのですから」
「神のご意思って、じゃぁ何だ?! アストライアー様は毎度毎度『この街を壊してこい』とでも仰っているのか?!」
「ふふふっ、まさかそんなご冗談を。破壊神ではないのですし」
「ならばもう少し聖女らしくしろ!」
聖女……だと?
いくら俺がこれまでの人生で神や教会と一切関わりも興味もなくても、この国に聖女が一人しかいない事くらいは知っている。
男の口ぶりからすると、どうやらトラブルメーカーらしい。となると、もしかしたら意外と早く、王城に返り咲く機会が得られるかもしれない。
そんな希望に満ちていたが、すぐに生まれた誤算にまず出鼻をくじかれる。
「ったくお前は、分かっているのか。聖女どころか貴族としてもあるまじき、だぞ」
貴族、つまり権力の権化。
最悪だ、今一番関わり合いたくない人種なのに。――いやしかし。
この時初めて己の運の悪さを呪った俺は、その感情を『早々に返り咲けばいい』という思いで無理やり上書いた。
期待した。
何か大きな事に巻き込まれて、一度の功績でとっととこの現状からおさらばする事ができるかも、と。
そしてその期待は――。
「なぁ聖女様。これって本当に、あんたがいう通り『世界を揺るがすような事件』なのか……」
鬱陶しいくらい綺麗な青空の下、人払いのされた広場のまん中で、俺は深いため息を吐きながら、修道服姿の女にそう尋ねた。
まだ午前中だ、天気はいいが、それほど気温が高いわけではない。日陰のないここに立っていても、ただそれだけで日々訓練で鍛えられた俺のこの体が疲労を感じる事はない。
が、どうにも気が乗らない。
髪への祈りとやらの途中で突然立ち上がった聖女が道中、言葉少なに「さもすごい事が起きる」と言わんばかりの事を言っていたから、俺もそれなりに期待したのだ。それなのに。
目の前にあるのは、広場にある噴水。まん中には二百年前に立てられた建国記念の女帝像が、右手には剣を、左手には鳥かごと持って待っている。
剣は圧政に抗うための剣、籠は国民を守るための強固な守りを意味していて、中には国民の象徴である両の翼を広げた小鳥がいる……だったか。
王都の人間でない俺は、この像を誰かとの待ち合わせの目印に使った事もなければ、信仰心も思い入れもない。躍動感にあふれるその鳥の姿をこれまで一度も見た事はなかったし、この場においても未だに見る事ができていない。
何故か? 理由は簡単だ。
籠の中に今、鳥はいない。
そういう状況だからである。
俺たちがここについた時には、既に籠の中に鳥はいなかった。
おそらくカゴと鳥との接地部分だったのだろう場所の断面がむき出しになっている。鳥の姿はは籠の中にもその近くにもなく、来て早々に集まっていた民衆に囲まれ、縋るように聖女に口々に不安を吐露していた。
聖女が笑顔で「大丈夫です。神からお告げがありました。神は私たちを見守ってくださっています」と言えば安堵したように皆散っていったが、その際に聞こえた話によると、どうやら「今日の朝になって、鳥が居ない事に気が付いた」らしい。
削ぎ取られたような切り口に、行方不明の鳥。この像に建造当初の想いをそのまま投影している人々からすれば、たしかにこれは守られている安心の外に自分たちが連れ去られてしまう暗示のように思えるかもしれない。それは正しく不吉である。
が、目の前の事実しか信じる気がない俺からすれば、そのような空想に振り回される事自体が不毛にしか思えない。
不吉な状況に不安になるのも、聖女のたった一言で安堵し帰路につく事も、俺には等しく至高の停止に思える。
そうでなくても、これはただ老朽化か、もし事件だったとしても、ただの器物破損や窃盗にしかなり得ない。期待していた『世界を揺るがすような事件』などには到底見えない。
そもそも俺は、そのお告げとやらの信憑性を疑っている。
たしかに聖女が日課の祈りを中断し突然「お告げが来ました、事件が起きます」と言った後、教会から迷いなく歩いてきた先で騒動が起きていたのだから、何かしらはあるのだろう事は俺も認めざるを得ないが、だからといって聖女の言う事すべてを無条件に信じられるほど、俺は単純な人間ではない。
俺のこの質問も、確認というよりは抗議に近い。
が、聖女・アイーシャの声は、柔らかな声で、思いの外キッパリと断言する。
「もちろんです。『神のお告げ』は、主神・アストライアー様が巫女たる聖女に世界を揺るがす出来事の予兆を知らせてくださるのです。万が一にも間違いはありません。ですから私はただ目の前の事件に、常に真摯に向き合わねばならないのです」
顔の横にサラリと落ちた一房の銀髪を細い指で耳に掛けた拍子に、斜め後ろに立つ俺にもその端正な横顔が垣間見える。
整った目鼻立ちに、ほんのりとした桜色の唇と頬。しかし最も目を引くのは、紫と黄色のグラデーションがかった神秘眼だろう。