その目は今、目の前の像に釘付けだった。
目の前で親指を人差し指をくっつけて、できた穴から向こう側を覗く。俺がそれを見ている俺がこれを「おそらくただのおふざけという訳ではないのだろう」と辛うじて思える理由は、厭に熱心に覗く穴の延長線上に、薄い水レンズのようなものが物理法則を完全に無視して三枚ほど浮かんでいるからだ。
彼女曰く、どうやらこれが魔法らしい。
俺は魔法が使えない。それどころか、こんなに近くで魔法というものを目の当たりにしたのさえ今が初めてだ。そんな俺でも、この目で見てしまったものの正体を他に説明できない以上 、とりあえずはこれが魔法であると信じる以外に道はない。
魔法を使うのが一体どういう感覚なのか、また一体何が見えているのか。俺にはまったく分からないから効果の程も信用するには足りないが、奇妙な光景である事は確かだ。
どうしたって気になるというもので。
「珍しいですか? 魔法が」
俺の視線を感じたのか、背中を向けたまま彼女が聞いてくる。
気まずくなって首をさすりながら視線を逸らせば、噴水の水面に左頬に傷のある、釣り目気味な三白眼の男と目が合った。不愛想で、我ながらバツが悪そうな顔だ。相変わらずのまったく感情を隠せていない自分自身を「よくないな」とは思ったが、今年で二十二になるというのに未だに直らない性分だ。今更どうにかできる事でもないだろう。
「平民から魔法使いが生まれること自体稀だ。日常で魔法を目にする機会なんて滅多にない。特に、俺みたいな辺境の街出身だとな。……まぁあんたみたいな貴族出身者にはよく分からないかもしれないけどな」
魔法使いが生まれる確率が少ない平民に比べ、貴族たちは皆魔法が使えると聞く。お陰でやつらは魔法を使えない平民を「劣等種だ」と蔑み、ほんの一部の魔法を使える平民を「異端朱」だと嘲笑う傾向が強い。
俺をこの場に追いやったあの男がまさにそうだったが、他の貴族たちだって結局は似たり寄ったりだった。
だからこれは、同じく貴族である聖女への嫌味であり、お前もどうせそっち側だろうという牽制でもある。
しかし聖女は一瞬キョトンとした。
「ユスティードさんは、魔法を使いたいのですか?」
俺にはどうにも、この不思議そうな問いの裏に「平民風情がそれを望むのか」という言葉が隠れているような気がした。
そもそも、魔法が使えて、貴族家の生まれで、神に愛され聖女になったようなやつだ。生まれた時から環境にも力にも恵まれているのだから、そういう傲慢な考えを持つのが自然であり、そこに希望を抱く方がむしろ難しいまである。
「そんな訳ないだろ。第一俺には、鍛え上げた肉体と剣の腕がある。神とか魔法なんかよりも、そっちの方がずっと信じるに値する」
我ながら、随分と感じが悪い返答をしたなと思った。
特に聖女には、信じる神がいる。その信仰が少なくとも彼女の中では強いのだという事は、一日も怠けずに誰よりも早く神に祈り始め、誰よりも遅くまで居座る姿を見ていれば、嫌でも分かるというものだ。
が、俺だって嘘はついていない。自分の心に正しくあった結果、意見の相違があっただけに過ぎない。そんな言い訳と共に聖女に苦言を呈される覚悟を、俺は密かに心の中でした。
が。
「ユスティードさんは、騎士である事に誇りを持っているのですね。信じるものがあるのは、とてもいい事だと思います」
予想に反して、聖女は顔色一つ変えやしなかった。
どれだけ外面を取り繕うのがうまいのか。
品行方正というか何というか、まだこの聖女に張り付き始めてから二週間ほどしかたっていないが、この女は常に周りに優等生じみた笑顔を飽きずに振りまいている。
誰にでも平等に優しいと言えば聞こえはいいが、少なくとも俺には誰に対してもいい顔をして、自身の感情や別の考えを胸の内に秘めているようにしか見えない。
何食わぬ表情で他者を欺き、権力を使って他者を好きなように動かす。そんな狡猾な貴族の特徴を目の前で見せられたような気がして、胸がザワリと嫌な騒ぎ方をする。
この女の事は、教会で改めて初めてこの女と会話を時から信じていない。
大体何なんだ、わざわざ「嫌な気持ちにさせてしまってはいけませんから、初めに言っておきますね」と前置きまでするから何かと思ったら、妙な嘘を吐きやがって。
何が「私、他者を嫌う事ができないのです」だ。
それはもしかして、すべてに対して笑顔を向ける言い訳なのか。だとしたら、俺を舐めているとしか思えない。
だってそうだろう? 俺がそんな見え透いた嘘を信じると思っているって事なんだから。平民だから、騎士風情だからと、バカにするにも程がある。
が、相手がまるで取り合わないのだ。一人だけいつまでもイライラしているのも、何だかちょっと馬鹿らしい。
「……お告げって、こんなに頻繁なものなのか」
話の矛先を半ば無理やりに変えれば、聖女が小首をかしげてくる。
「何故そんな事を聞くのです?」
「俺は一応あんたの護衛だ。あんたの行動パターンは、正しく知っておくに越した事はない」
要人の身辺護衛をする場合、護衛対象が普段どのような行動を取るのかは知っておいた方がいい。そんな一種のセオリーに則って尋ねれば、彼女は「なるほど」と納得する。
「そうですね。お告げがいつ為されるのかは、神のみぞ知る事でしょう。一年以上間が開く事もあれば、翌日に次のお告げがくる事もあります。――まぁでも最近は、少々頻度が多い気がしますね」
「気まぐれなんだな、神ってやつは」
「必要な時に必要なお告げをしてくださった結果です。もしかしたらヒトには知覚できない法則性があるのかもしれませんし」
「聖女にも分からないものなのか」
「私など、神様のお告げに間違いはないと事実として知っているだけの、タダビトに過ぎませんよ。――さてそれよりも、ユスティードさん」
言いながら、彼女はやっと像の観察を終え、こちらに目を向けた。ニコリと微笑み、こう告げる。
「少し面白い事が分かりましたよ」
「面白い事?」