「何を仰いますか! 誠の事に御座います!
恥傷を付けたその場を見た者が幾人も居るのですぞ! それを嘘などと!」
稲葉のおっさんが唾を飛ばしまくって猛る。
否定をするにしても、何かしらの理由を付けてからならまだしも、二つ返事で否定をしたのだから当然だろう。
ちなみに、恥傷とは背中に負った傷を指す。
即ち、武士が逃げるのは恥。その際に負った傷はそれ以上ない恥とされている。
「違う、違う。家康に恥傷を負わせたというのは疑っていない。
その小僧には品がある。疑っているのは名前と出自だ。本当は違うのだろう?」
「なっ!? そうなのかっ!?」
だが、俺の顔見知りは脇役。その法則を語る事は出来ない。
少し考えてから適当な理由を並べたが、それもまた事実でもある。
稲葉のおっさんの後ろに控える少年と目が合ったのは一瞬。
少年はその瞬間から少年は目を伏せて、今は頭を垂れて、俺と目を一度も合わせようとしなかった。
これは後ろめたい事が有るのでもなければ、俺を恐れているのでもない。
小早川秀秋が『中納言』だと、殿上人だと知っているからこその敬いが感じられた。
なにせ、今日出会った足軽達は全員が粗野。端的に言うなら、礼儀知らずだった。
恐らく、稲葉のおっさんを偉い人だとするなら、俺はもっと偉い人くらいの認識。小早川秀秋が持つ官位『中納言』がどれほどの地位にあるかが全く解っていない。
中納言は従三位。帝の日常生活の場に立ち入る事が許された身分。
殿上人という言葉で解る通り、常に一段上の存在。俺は現代感覚で足軽達と対等に接して会話を楽しみ、それを足軽達も応じていたが、本来なら会話を交わすどころか、目を合わすのすら許されない。
しかし、それは仕方が無い事だ。
今言った通り、足軽達は中納言がどれほどの地位にあるかが解っておらず、そういった教育とは無縁の日常を過ごしてきたのだから。
それ故、明らかに礼儀作法の教育を受けていると考えられる少年の立ち振舞いが際立った。今だって、ただ跪いて頭を垂れているのとは違う。
右腕を立てた膝の上に乗せて、左拳を大地に突き、脇に差していた刀を置く。その頭を垂れる姿勢は実に整っており、そういった作法を知らない俺ですら心の中で「おおっ!?」と思わず呟いて感心したほど。
「申し訳御座いません! 中納言様の彗眼、恐れ入ります!
私の本当の名は城井朝末! 今は亡き城井朝房の息子に御座います!」
そして、その予想は正しかった。
稲葉のおっさんが顔を勢い良く振り向けると、少年は垂れていた頭をより深く垂れて、本当の名前を明かした。
「な、なんとっ!?」
「ほう…。あのキイ家の?」
たちまち稲葉のおっさんは目を見開いて、びっくり仰天。口をあんぐりと開けた。
俺は左手で右肘を持ち、右手で顎を持ちながら稲葉のおっさんの反応から何やら驚く理由が有るのだろうと察して、知ったかぶりのしたり顔を浮かべる。
俺は戦国時代が好きだし、それなりの知識を持つが、教鞭を取れるほどではない。
あくまで詳しいのは『関ヶ原の戦い』と『小早川秀秋』に関して。それと戦国時代の主役ともいえる『織田信長』を中心にした出来事で『本能寺の変』以後はそれほど詳しくない。
いや、日本史で習った内容以外、ほぼ知らないといった方が正確か。
ぶっちゃけて言うなら、豊臣秀吉が天下を取る前後からの歴史は興味が湧かなかった。
その為、マイナーな名前を出されてもさっぱり解らない。
少年を演じている親友とは転校して以来、交流が完全に途絶えているが、親しさで比べたら断然に稲葉のおっさんより深かったにも関わらず、何故に覚えのない役を演じているのだろうか。俺の夢の配役基準が解らない。
「中納言様は家康の首に十万石の値を付けられました!
ならば、恥傷の値はいかほどに御座いましょうか! 願わくば、お家の再興を!」
「面白い! その意気や良し!
キイ・トモスエ! お前を直臣に取り立て、侍大将の役を与えよう!」
だが、さすがは俺の親友。その申し出は痺れるくらいに格好良かった。
ここでちょっとでも躊躇ったり、渋るのは格好悪い。親友の姓の読みは覚えていたが、どんな漢字を書くかは忘れてしまい、それを懸命に思い出しながら二つ返事で大盤振る舞いに大きく頷く。
侍大将とは戦場で総大将の直下にあたる役職。
即ち、一番下の足軽から一気に大幹部への大抜擢である。
顔を跳ね上げた少年は驚きのあまり言葉が出てこないのだろう。
目をこれ以上なく見開きながら顎をに上下させて、口を開きかけたり閉じたりさせる。
「なりません! なりません! なりません!
駄目です! 駄目、駄目、駄目! 絶対の絶対、駄目に御座います!」
ところが、稲葉のおっさんが小煩いどころか、超煩く猛反対。
前のめりに右足を踏み出して、首を左右にブンブンと勢い良く振りまくり。髷が解けそうな勢い。
「何だよ…。何が駄目なんだよ?」
「城井朝房殿に嫡男が居るとは今の今まで知りませんでしたが…。
城井朝房殿といったら、黒田親子との確執は有名な話!
一度は和解するも暗殺された上、娘とその娘に仕える侍女達までもがことごとく磔にされています!
この者を直臣に取り立てたら、黒田親子の不興を買うのは必然! どんな災いが殿に及ぶかが解りませんぞ!」
たまらず舌打ちして、口を尖らすと、稲葉のおっさんは全力の身振り手振りを交えた解説。
視線を少年へ戻せば、目を伏せながら下唇を噛み、力強く握った両拳の震えを肩へと伝え、悔しさを滲ます一方で諦めも見て取れる落胆ぶり。
「別に良いんじゃね?」
「ひょっ!?」
「だって、不興を買うも何も…。
息子の黒田長政は関ヶ原で家康側に付いたんだから、とっくに敵だろ?」
「そ、それは……。し、しかし、親の黒田孝高は太閤様も恐れた切れ者でして…。」
しかし、俺は稲葉のおっさんが訴えた問題を問題に感じていなかった。
その点を告げると、たちまち稲葉のおっさんはトーンダウン。もごもごと反論を重ねようとするところに柏手をパンッと響かせて打ち、問答を強引に終わらせる。
そもそも、これは夢だ。後の事など知らない
大事なのは今。どれだけ格好良い小早川秀秋を演じられるかだ。
「うん、決まり! お前、今から俺の家臣な!
ただ、その頭だとサマにならん! 名は既に持っているようだが?」
「は、はい! ち、父が残してくれたのです!
そ、それを母が今生の別れの際に預かったと、今回の戦へ出立する時に教えてくれました!
し、しかし、黒田親子を恐れて、烏帽子親を引き受けてくれる者は見つけられなかった! う、初陣の晴れ舞台を前に不甲斐ない自分を許してくれと涙ながらに何度も詫び、私の出立を見送ってくれたのです!」
少年が俯きかけていた顔を再び跳ね上げる。
感極まって全身を震わせて、声も震わせて、その目に今にも零れ落ちそうな涙を溜めてゆく。
もう一度、言おう。さすがは俺の親友だ。
徳川家康に恥傷を負わせたドラマもあれば、バックストーリーにもドラマがある。俺の顔見知りは脇役の法則は正しかった。
「そういう事なら、俺が烏帽子親をやってやる! 今すぐ、元服だ!」
「な、なんとっ!? ……ぼ、望外の極み!
こ、この城井朝末、命尽きるその時まで秀秋様に忠義を捧げます!」
「おう、励めよ!」
だったら、ドラマをより盛り上げてこその主人公。
俺が腕を組みながら鼻息をフンスと強く噴き出して頷くと、少年は遂に号泣。鼻水までダラダラと漏らす見事な男泣きっぷりにちょっとだけ引いた。