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第7話 夢から覚めて




「77っ! ……78っ! ……79っ!」



 俺が小早川秀秋になって、今日で一週間目。

 さすがに一週間も経つと、今の瞬間瞬間が夢の中に非ず、紛れもない現実だと認めざるを得なかった。


 無論、何故に戦国時代の世界に居て、何故に小早川秀秋で居るかの謎は有る。

 突如、俺が居なくなり、両親はどうしているか。仕事はどうなったのかの心配も有る。


 しかし、不安は無い。

 正しく、荘子『胡蝶の夢』を実体験中。そうとしか言えない現実だが、俺は小早川秀秋として戦国時代に自分の足でしっかりと立っていた。


 それと言うのも、愛妾となった『雪』の存在が大きい。

 何かで読んだ言葉だと記憶しているが、やはり男は女という存在を通して、自分と世界を認識するのだろうか。


 最初は義務感からだった。

 俺が小早川秀秋になった初めての夜、そろそろ寝ようと与えられた寝室へ行くと、寝室中央に敷かれた布団の横に正座で頭を深々と下げる雪が待っていた。

 古今東西の戦時の逸話に出てくる一夜妻の存在を知っていた為、その状況を即座に所謂『据え膳』と悟り、緊張に震える声で『夜伽を申し付かっています。どうぞ、お楽しみ下さい』と告げられて、その申し出を断ったら雪とその家族が困るとも解り、俺は雪を抱いた。


 いや、大嘘だ。

 ちょっと格好を付けた言い訳に過ぎない。


 俺に彼女が居たのは遠い昔の話。高校の卒業を間近に控えたたったの二ヶ月。

 クリスマス前に向こうから告白されて、女性の身体に興味津々でありながらも、お互いが初心だった為、関係は手を繋ぐ止まり。

 俺が東京なら、彼女は大阪の大学に進学した後、連絡が次第に途絶えて、縁そのものがお盆で帰省した頃には完全消滅。結局、俺が上京する電車での別れが最後の顔合わせになった。


 その後、彼女が居た事は無い。

 社会人になってから先輩の誘いに乗り、風俗を憶えたが、最近は忙しさからとんとご無沙汰。

 急遽、広島出張が追加されていなかったら、すすきのの夜を大フィーバーするつもりだった為、ぎこちないながらも果敢に攻めてきた雪を前に俺の理性がぶっ飛んだだけ。


 しかし、今は確実に違う。

 毎晩、雪を抱いて、その内で果てる度に愛おしさが増して、手放してはならない存在になってきていた。


 それに今は戦国時代で俺は小早川秀秋でも、持っている感覚は現代で培ったもの。

 戦国時代では当たり前だろうと、14歳の少女に手を付けておいて、とても放置は出来なかった。


 この身は二十歳前だろうと、心は三十手前。

 大人としての責任を取る必要が有る。そこから逃げたら、俺は俺で失くなってしまう。



「87っ! ……88っ! ……89っ!」



 だが、問題が一つ。俺の記憶が確かなら、小早川秀秋は既婚者。

 奥さんはどんな女性なのだろうか。雪の存在を認めてくれるだろうか。

 その辺りを奥さんと会う前に稲葉のおっさんなどにそれとなく聞いておく必要が有った。


 問題は他にもある。奥さん以上に差し迫る大問題だ。

 小早川秀秋は関ヶ原の戦いの二年後に乱心した挙げ句、21歳の若さで亡くなっている歴史的事実。


 一説によると、その原因は酒。

 嘗ては豊臣秀吉の後継者候補だった小早川秀秋は、現代でいう中学生の頃から接待による酒漬けとなっており、関ヶ原の戦いがあった頃にはもう完全なアルコール中毒だったといわれている。


 なるほど、確かにその通りかも知れない。

 この身体になってから、しばしば酒を無性に欲したくなり、その際は指先が震える自覚症状も有る。

 風呂の水面に身体を映してみれば、全体的に見たら細身でも下腹だけが出始めており、典型的なアルコール太りの兆候で格好悪い。


 それ故、俺は暇を見つけては槍を庭で振り、身体からアルコールを抜いていた。

 断酒宣言を揃い踏みした重臣達の前で行い、俺に酒を勧めてきた者は打ち首獄門と冗談交じりに脅してもある。



「97っ! ……98っ! ……99っ!」



 その結果、意外な事が判明した。

 肖像画で残る小早川秀秋の印象はひょろりとした情けない優男としか感じないが、現実は違った。


 ひょろりはひょろりでも鍛えられた細身。

 少なくとも元の俺よりは筋力が有って、体力も有る。


 天性によるものか。それとも、後世には伝わらず、実は影で鍛えていた努力の賜物なのか。

 どちらにせよ、夢の中だと思い込み、怖いもの知らずと思い切りの良さ、火事場の馬鹿力。それ等全てが上手い具合に重なって、あの本多忠勝を討ち取り、その後も家康を半日に渡っての追撃が出来たのだから、当然といったら当然の筋力と体力である。


 一、右足を踏み出しながら槍で前方を突く。

 二、突いた姿勢のままで槍を外側へ払う。

 三、続けざまに槍を内側に巻き、踏み出していた右足を戻す。


 譬えば、この稲葉のおっさんから教わった槍の基本三動作をワンセットとして、百回。

 元の俺なら十回も数えない内に音を上げてしまう鍛錬を初めて実行した時からこの身体は成し遂げているし、その所要時間も次第に短くなっている気がする。


 とにかく、嬉しい誤算。

 戦いどころか、喧嘩すら無縁の現代社会で生きてきた俺にとって、戦国時代を生きていけるかの自信になった。



「100っ!」



 今後の目標は家康と徳川家の打倒だ。

 最低でも徳川家の力を小大名の一つにまで落とさなければ、どんなに健康を取り戻そうと豊臣家の血が流れている俺の命運は尽きる。


 しかし、現時点でそれは不可能。

 関ヶ原の戦いの後、家康が大垣城を素通りして、東海道を下ったと知った時、俺は追撃するべきだった。

 あの時は夢の中と調子に乗り、どんな無謀もやってのけたが、今は雪と現実を知り、それを守ろうとどうしても慎重になってしまう。


 追撃を諦めた原因となった徳川秀忠は既に撤退済み。

 関ヶ原の戦いの二日後、中津川で半日ほど滞在した後、中山道を引き返しているのを小早川家の忍者が確認している。

 その後の続報によると、南木曽まで戻ったところで飯田へ抜けて、天竜川沿いに南下。家康と浜松城で合流する予定と考えられる。


 家康は東海道をひた走り、関ヶ原の戦い当日に安祥城で停止。

 翌日、岡崎城へ移動して、散り散りになった東軍に集結命令を出すが、その翌日に再び東海道を下り、浜松城へと入城している。


 一方、石田三成は鳴海城で進軍を停止。

 こちらも敵を追撃するのに夢中で散り散りになった西軍に集結命令を出して、現在は兵力を再編成している真っ最中である。


 最早、これは千日手に陥っていると言えるだろう。

 その首を獲りさえしたら戦いそのものが終わる家康はもう二度と油断をしてくれない。

 徳川秀忠と合流して、無傷の兵力を得たとしても浜松城に籠もり、こちらの動向をじっと伺い続けるだろう。


 それに浜松城を陥落させたとしても、その先は厳しい。

 家康が本拠地とする江戸城までの間、川が天然の大堀になって西側からの攻勢が難しい駿府城、天下の険と名高い箱根、難攻不落の小田原城と大きな障害が三つも有る。


 これ等を立て続けに攻めきるのは絶対に無理だ。

 だが、ただ対陣しているのも厳しい。これから季節は冬を迎え、戦費の消耗は激しくなり、士気の低下も著しくなって、それは結果的に豊臣家への求心力を失わせる。


 だから、家康との和睦が現状のベスト。

 当然、戦況がこちらの大優勢で和睦するのだから、家康には大粒の涙を飲んでもらう必要が有る。


 そう、俺が知る歴史で関ヶ原の戦いに勝利した家康が豊臣家へ対して行ったように。

 可能な限り、徳川家が今持っている力を削ぎ、豊臣家との格差を数年積み上げた後、その時こそが家康との決着を付けるチャンスとなる。



「ふぅぅ~~~…。」

「感心、感心! 頑張っておられますな!」



 槍の穂先を下げて、突きの構えを解きながら一息をつくと、背後から声がかかった。

 振り返らなくても解る。この一週間で色々と助けられ、随分と親しくなった稲葉のおっさんだ。


 俺が今の現実を夢だと勘違いしていた頃に見つけた法則『俺の顔見知りは脇役』について。

 これに関して調べてみると、小早川の姓を持つ俺が小早川秀秋であるように、稲葉のおっさんも『稲葉正成』という名で姓だけが一致しており、他の者達も同様の面白い事実が解った。


 特に雪から『烏丸』の姓を聞いた時は驚いた。

 正直に言えば、聞く直前まで忘却の彼方にあったが、小早川以上に珍しい『烏丸』の姓を忘れる筈が無い。



 中学生の時、お嬢様の渾名で親しみ呼ばれていた生徒会長だ。

 学校のマドンナ的存在で上級生だった為、俺が一歩的に知っているレベルの顔見知りだったが、雪がこうも俺に近い場所にいるという事は彼女も俺を知ってくれていたのだろうか。


 ひょっとしたら、実は俺に好意を抱いていてくれたのかも知れない。

 そう考えるとロマンを感じるが、彼女との接点は無かった。今更の今更過ぎて、確認のしようがない。


 もっとも、この一週間で出会った者達に限っての話。

 今の自分の立場を考えたら、これから多くの人に出会うだろうし、この法則が正しいと断定はまだ出来ない。



「ん? 居たなら、話しかけてくれても構わないのに」

「いやいや、忙しい合間を縫っての鍛錬!

 しかも、それが気晴らしになっていると知っていて、邪魔は出来ませぬ!

 ささ、風呂の用意をさせてあります! 身体が冷える前に早うお入り下さい!」

「すなまいな。一日に湯を何度も沸かして」

「なんの、なんの! こういう出費なら大歓迎ですぞ!」



 しかし、これだけは確実に言える。

 小早川秀秋に近い者達が顔見知りの為、とても助かっている。


 小早川秀秋になる以前の俺はそれが仕事なら見ず知らずでもガンガン攻められる営業マン。

 人見知りのナイーブさは新人時代に捨て去ったとはいえ、いきなり戦国時代に一人ぼっちはきつい。


 だが、顔見知りが居るなら、それだけで安心するし、距離感も掴めやすい。

 もし、この配慮を神が行ってくれたとするなら、この点だけは感謝したかった。 




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