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第三章 決戦、岡崎城

第12話 いざ、出陣




「どうだ? 格好良いだろ?」



 制服効果という言葉を知っているだろうか。

 服装によって、人間は気持ちも態度もその服装に沿ったものになりやすいという心理学の言葉だ。


 今、俺はそれを実感していた。

 鎧を身に纏って、兜の緒を締め、陣羽織を羽織ると、ただそれだけで強くなった気がする。

 現代のようなガラスの鏡がまだ発明されていないのが残念で仕方がない。今の自分を大きな姿見に映して見てみたい。



「雪?」

「えっ!? …あっ!? は、はい、どうぞ!」

「うん、ありがとう」



 だから、第三者に感想を求めたが、笑顔を振り向かせた先の雪から返事は無い。

 沈んだ表情で視線を落としており、その名を呼ぶと弾かれたように顔を上げて、預けていた刀を差し出してきた。


 求めていたものとは違うが、それを指摘するほど無粋ではない。

 何故、雪が気落ちしていたのか。何故、名前を呼ぶまでぼんやりとしていたのかが解るから。


 何故ならば、俺は伊達や酔狂で鎧姿に着替えた訳では無い。

 まかり違っても、雪と『野武士と哀れな村娘』的なプレイを行う為でもない。


 これから出陣する為だ。

 石田三成と大谷吉継の強い要請が有り、岡崎城攻めに加わる事となった為である。


 それが決まったのが昨夜なら、それを雪に伝えたのも昨夜。

 どうやら雪はなかなか寝付けなかったらしい。明らかに睡眠不足で精細に欠けていた。

 もし、俺が戦死したら今の立場を失う。その当然の打算も有るのだろうが、こうも心配されて嬉しくない筈が無い。



「雪は船に乗った事が有るか?」



 ここで打つべき手は明るい未来への展望だ。

 最後の支度である刀を腰に差して、満面の笑顔を浮かべる。



「船……。ですか?

 子供の頃、漁師の方に長良の川下りを楽しませて貰った経験なら……。」

「なら、言い換えよう。岐阜から出た事は有るか?」

「いえ、一度も有りません」



 雪は目をパチパチと瞬き。

 脈絡のない問いかけに戸惑っているのだろう。首を傾げながらも応えた。


 戦国時代の女性の行動範囲は狭い。

 その理由は大きな街ですら端の方は治安が悪くて、街の外へ一歩でも出たら命の保証が無いくらい世の中が荒み切っているからである。


 それに岐阜城城下は中山道が通る美濃国で一番栄える街。

 今は戦時下の為、商人の往来はほぼ絶えているが、大通りは多くの商店が軒を並べている。大抵の物は外へ買い出しに出向かなくても手に入る。


 ましてや、雪は名家の血筋。

 寝物語に聞いた暮らしぶりは貧しさを感じたし、炊事や洗濯、裁縫といった家事は本人達が行っていたようだが、その身に危険が及ぶリスクは過渡になるくらい本人自身と周囲が避けていたに違いない。もしかしたら、岐阜城の城下町どころか、武家屋敷が並ぶ一帯から外へ出た経験を日常で持たない可能性が有る。



「なら、楽しみにしていてくれ。

 今度の戦いが終わったら、暫くは平和になる筈だ。

 瀬戸内を船で渡り、太宰府天満宮へ連れて行ってやるぞ?」



 そんな雪に外の世界を見せてあげたかった。

 菅原道真を祀る神社『太宰府天満宮』を挙げたのは特に意味は無い。

 小早川秀秋が領土に持つ筑前、筑後の中で知っている観光地を挙げただけに過ぎない。

 だが、その意味は十分に通じた筈だと思った瞬間、正にシチュエーションが所謂『死亡フラグ』だと気付き、慌てて口を塞ごうと右手を持ち上げる。



「そ、それって……。で、でも、私は……。」



 しかし、途中で軌道を変え、実際に塞いだのは雪の口。

 一旦は驚きに見開いた目をすぐに伏せた雪が、何を口に出そうとしているかが解ったからだ。


 俺と雪の関係は正式な結びつきではない。

 言い方は悪いが、雪は戦時下での戦利品。俺がここ岐阜城に滞在している間だけの現地妻でしかない。


 そして、小早川秀秋は既婚者。奥さん『古満姫』が居る。

 小早川秀秋と古満姫について、それとなく皆に聞いて集めてみたところ、二人の仲はお世辞にも芳しくない。


 古満姫は毛利輝元の養女で年齢は十八歳。

 小早川秀秋が小早川姓を得た時に婚姻関係を結び、結婚生活は既に六年目。


 当初はとても仲睦まじい似合いの若夫婦だったらしい。

 だが、小早川秀秋が悪臣に唆されて、女遊びを覚え、外に女を作り始めると嫉妬深い一面が露わとなり、夫婦仲は悪化。

 昨年、小早川秀秋が外に女を作るどころか、娘まで作った事実が知れると、夫婦仲は完全に冷え切ってしまい、彼女は離婚を宣言。今現在、離婚調停中である。


 最早、呆れを通り越して、言葉が出ない。

 公人として駄目なら、私人としても駄目。小早川秀秋の駄目駄目っぷりに頭が痛くなる。

 特に婚外子の娘がいるという事実は目眩いを覚える。現代人の一般的な常識を持つ俺には受け入れ難い。


 しかも、古満姫の嫉妬が爆発するや、母親と娘を家臣の一人に預けて放置。

 その家臣から家康との騒動が落ち着いたら是非とも一目で良いから会ってやってくれと土下座で懇願された時は、座っていたのに立ち眩みを覚えた。


 俺は小早川秀秋とは違う。一目で済ませてはならない。

 今は名前を知らなければ、記憶にすら無い娘だろうと娘は娘。しっかりと育てる義務が有る。


 無論、離婚調停中に関しても問題だらけ。

 古満姫との間に子供は居ないが、彼女が毛利輝元の養女という要素が大きな障害になっている。


 小早川秀秋と古満姫の婚姻は豊臣秀吉の強い意向。

 毛利家を豊臣家の支配下により組み込もうとする意図だが、毛利家も大きな恩恵を得ている。

 豊臣政権内で強い権力と100万石の石高を所有する事を許されており、今回の家康との戦いに至っては幼君『豊臣秀頼』の代理として西軍総大将を務めているのもそれが大きな理由になる。


 また、それこそが離婚調停中の理由にもなっている。

 小早川秀秋と古満姫の本人同士は離婚に応じており、毛利輝元が強く待ったをかけている状態。それも一年以上も。


 もし、俺が小早川秀秋とならず、小早川秀秋が小早川秀秋のままだったら。

 毛利輝元は考えをあっさりと覆して、小早川秀秋と古満姫の離婚を認めるどころか、積極的に自分からそうなるように動き出すだろう。


 ここ一番の大勝負『関ヶ原の戦い』で豊臣家を裏切る行為は、西軍総大将の毛利輝元の顔に泥を塗りたくる行為。

 見限るに十分過ぎる理由で有るし、次の天下人になる家康に媚を売り、豊臣家と関係を絶った大きな証明にもなる。


 しかし、逆に俺は関ヶ原の戦いで名を上げた。

 それも二つ名『松尾山の鉄砲水』と呼び讃えられるほどの大活躍っぷり。


 その上、毛利輝元は関ヶ原の戦いに派遣した家臣達が静観で終わった大失点が有る。

 関ヶ原の戦いが大勢を決して、俺が家康を追撃を仕掛けた時、これに呼応していたら大失点は失点になっていたかも知れないが、毛利家の家臣達は動かなかった。

 誰よりも家康を討ち取る絶好の位置にいながら逃亡を見送り、ようやく動いたのは俺が大垣城の手前まで迫った時であり、何もかもが遅すぎた。


 この大失点が有るからこそ、毛利輝元は離婚を絶対に認めない。

 今となっては小早川秀秋と古満姫の婚姻関係が毛利家を支えていると言って過言でない。

 離婚を認めてしまったら最後、毛利輝元個人は言うに及ばず、毛利家そのものが大きく力を削がれる事となる。


 つまり、俺が雪を傍に置くとなったら、古満姫との対決は避けられない。

 正直、それを考えるとこれから赴く戦いより怖い。勇気を貰おうと雪を抱き締める。



「勿論、その前に大阪だ」

「ひ、秀秋様…。」



 顎が身長差で雪の頭に乗り、その髪から漂う香りが鼻孔を擽る。

 腕の中にすっぽりと収まった女性特有の柔らかさがたちまち褌を窮屈にさせて収まりを悪くさせてゆく。


 昨夜は石田三成と大谷吉継が急な訪問。

 悪巧みは深夜まで及び、一緒の布団で寝てはいるが、大運動会の開催は中止。雪との時間は朝食とこの着替えでしか取れなかった。


 この身体は18歳。若さを発散させたい盛り。

 今朝は洗顔を済ませただけで、つい先ほどまで一緒に寝ていた布団は隣室にまだ敷きっぱなし。

 このまま雪を抱きしめながら隣室へ繋がる襖を足で開けて、布団へ飛び込み、若さを一緒に発散し合いたい衝動に駆られる。


 だが、石田三成と大谷吉継は岐阜城を既に発っている。

 兵士達は俺よりずっと早く起床して、岐阜城郊外に隊列を作り、俺の到着を今か今かと待ちかねている。



「では、行ってくる!」

「はい! ご武運を!」



 その期待を裏切る訳にはいかない。この現実で生きてゆく為、それに応える必要が有る。

 未練を断ち切ると共に雪との抱擁を解き、回れ右。本当は開きたかった襖とは逆側にある障子戸を両手で左右に勢い良く開け放つと、朝日の眩しさが俺を照らした。




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