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第1話 錆びた鍵と、開かずの引き出し②

 色褪せた封筒が二枚、ひとつひとつ手折られた便箋が重ねられている。

 まひるが何も言わずに見守る中、女性は静かに紙の束を手に取った。

 その指先は少し震えていたが、それでもためらいながら口を開いた。

「……これは祖母の字です」

 声に含まれるわずかな震え。

 それは戸惑いというより、今もなお届く声に対する驚きのようだった。

「わたし宛じゃない。でも……わたしに見つけてほしかったんだと思います」

 光の差す畳の上に、女性は膝を折った。

 書き慣れた癖のある筆致が並ぶ便箋を、そっと開く。

 その瞬間、店の空気がふわりとやわらぎ、どこか懐かしい気配が辺りを包んだように感じられた。

 しばしの沈黙ののち、女性は小さく息を吸い、読み上げるように言葉を紡ぎ始めた。

「『未来のあなたへ。わたしは、あの日あなたの怒った顔を、今も思い出します。壊れた花瓶の音より、あなたが扉を強く閉めた音の方が、ずっと心に残っています――』」

 声がわずかに掠れる。

 手紙を持つ指は震え、紙が小さく揺れていた。

 まひるはその事実に触れず、そっと棚に手を添え、布で丁寧に磨き始めた。

 まるで、棚そのものに寄り添い、寄り添うことでその記憶を撫でるように。

「『あれからあなたが戻らなかった日々、毎日が空っぽでした。けれど、それでも私は、あなたを責めることはしませんでした。あなたがあなたであることを、ずっと願っていたからです』」

 女性の声が震え、その目にはもう、抑えきれないものが溢れていた。

 まひるの指が棚の彫りに触れたまま、動きを止める。

 木の香りと紙のにおい、夏の朝の乾いた空気のなかで、ふたりのあいだに深い沈黙が生まれる。

 言葉では埋めきれない、長い時間がそこにあった。

「どうして……今さら、こんな……」

 女性は手紙を握りしめ、声を絞り出すように呟いた。

 頬を伝う涙が、封筒の角に落ちて、小さな染みを作る。

「赦すなんて……ずるいよ……」

 それは悲しみでも怒りでもない、ずっと持ち続けていた痛みのかたち。

 祖母の手が、時を越えて差し出した温もりに、心がようやく追いついた瞬間だった。

 まひるは何も言わず、そっと棚の上に布をかけた。

 それはまるで、今ここに生まれた小さな赦しを、守るような仕草だった。

 まひるは音もなく立ち上がり、小さな鍵を手の中でそっと転がした。

 錆びついた歯が、かすかに指先を引っかく。

 その重さは、ただの金属の質量ではなく、時の重なりそのものだった。

 引き出しの前に身をかがめる。

 鍵穴は、まるで長く忘れられていた記憶の扉のように、埃を吸い込んで沈黙していた。

 ゆっくりと、まひるは鍵を差し込む。

――カチャリ……

 小さな音が、空気のなかで静かにほどけた。

 そして、ごくわずかな抵抗ののち、鍵はするりと回る。

 内部の錠が解かれる音が、まるで息をついたかのように聞こえた。

 まひるは、少しの間を置いてから、引き出しをゆっくりと引く。

 柔らかい木の音がして、その中に眠っていたものたちが、ようやく朝を迎えた。

「開きました。……どうぞ」

 その声に、女性は小さく頷き、ためらいがちに手を伸ばす。

 指先がかすかに揺れる。

 それは、触れることを赦されることに、まだ心が追いついていない証だった。

 引き出しの中には、丁寧に置かれた万年筆と、小さな手鏡。

 どちらも時間をともに過ごしてきた道具らしく、艶を失わぬまま、穏やかな存在感を放っていた。

 女性はそれを見た瞬間、胸元に手を当て、目を潤ませた。

 「……あ、これ……」

 声が震える。涙を含んだ喉が、うまく言葉をつなげない。

「わたしが壊した……手鏡と同じ形……」

 肩が、堰を切ったように震え出す。

 声が喉の奥で詰まり、深く息を吸いながら、彼女は震える指先でそっと手鏡を取り上げた。

 縁がわずかに欠けている。

 古びた銀の装飾が、そのかけらを抱くように残っている。

 細かな草花の彫り込みが、使い込まれた艶の中に、祖母の気配をしっかりと刻んでいた。

「これは……高校生のとき、私が……」

 掠れた声が、記憶を辿るようにこぼれる落ちる。

「母に叱られて、むしゃくしゃして……祖母の部屋で……」

 唇を噛み、彼女は目を伏せた。

「……私は、その手鏡を投げて……八つ当たりして壊したんです」

 言葉を吐くたびに、悔しさと後悔が押し寄せるようだった。

 その瞬間の自分の行動を思い出すことが、今でも胸を締め付けている。

 まひるは、黙っていた。

 ただ布を持ったまま棚の引き出しを磨く手を止め、静かにその場の空気に身を委ねる。

「祖母は、私を叱りませんでした。『大丈夫、ちょっと欠けただけよ』って……笑っていたんです」

 彼女は、両手で鏡を包み込むように抱いた。

 まるで、それが壊れたままでも、そこに込められた想いが欠けていなかったことを確かめるように。

「でも、そのあと……私は、家を出たんです」

 ぽつりぽつりと語られる言葉が、畳に落ちてゆく。

 時間が静止したように、誰も動かない。

 ふいに、軒先の風鈴がチリンと鳴った。

 それは外の風がふっと店先を撫でた音だった。

 まひるは、少しだけ顔を上げ、目の前の女性と、そして鏡を見つめる。

「……この鏡は、手作りですね」

 声はひどく静かで、けれど芯のある響きを帯びていた。

「お祖母さまが、磨いて、細工して……もしかしたら、贈り物にしようとされていたのかもしれません」

 言葉の奥に、まひるは確かな想いの温度を重ねた。

 壊れても、なお残った形。

 渡せなかった贈り物。

 それでも、ずっとそこに在り続けていた――それが、すべてを物語っていた。

「贈り物? 私に?」

 女性はかすかに唇をゆがめた。

 その笑みは、笑いとは呼べない、どこか自分を嘲るようなものだった。

「ありえない。なんで? ……こんなにひどい孫だったのに」

 その声には、自分自身に向けた厳しさと、赦されていたことへの戸惑いがにじんでいた。

 彼女の中にはまだ、受け取る準備の整わない想いが、棘のように残っている。

 まひるは何も答えず、そっと手鏡を布で包み直した。

 布の重なりに指を沿わせる仕草は、まるで痛みに寄り添うような優しさを含んでいる。

 鏡を棚に戻した瞬間だった。

 ――ふと、空気が揺れた。

 まひるの耳が、ぴくりと反応する。

 どこからともなく、微かな気配が店の奥から舞い込んでくる。

 風が通り抜けたのとは違う。

 それは音のようであり、声のようでもあった。

(――音がする。いや、違う。これは……風のような……声?)

 まひるは目を閉じる。

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