朝の光が、硝子戸越しにゆっくりと店内に差し込んでいた。
陽だまりの中に浮かび上がる《古道具屋兼お道具預かり処日向庵》。
畳の匂いに、古い木材のかすかな甘さが混じり合い、空気そのものに懐かしさが満ちていた。
まひるは箒を持つ手をとめ、静かに耳を澄ませた。
店先に吊るした鈴が、かすかに揺れていた。
――チリーン……。
普段より、ほんの少しだけ重たい音。微かに迷ったような響きが、胸の奥にじんと染み入る。
(風が変わると、音の響きも変わる。今朝の鈴は、ちょっとだけ重たくて、少しだけ迷っていた。そんな音がする日は、決まって誰かが〝なにか〟を持ってくる)
そんな確信にも似た直感が、胸の奥で小さく灯っていた。
まひるは、箒を立てかけ、戸口へと視線を向ける。
木枠の戸が少しだけ開いていた。
そこに立っていたのは、二十代後半ほどの女性。
生成りのワンピースの裾を不安そうにぎゅっと握り、どこか戸惑いを隠しきれない面持ち。彼女はまひると目が合うと小さく肩をすくめた。
「あの……すみません。ここって、古道具を引き取ってもらえるんですか?」
その声には、ためらいと、わずかな罪悪感がにじんでいた。
まひるは、穏やか微笑を浮かべ頷いた。
「ええ。よろしければ中へどうぞ。お預かりし、お掃除して、お返しもできますよ」
まひるの声は、包み込むように静かだった。
その響きに安心したのか、女性は小さく頷いて店の中へと歩を進める。
抱えていた紙袋の中から、丁寧に包まれた布包みをそっと取り出す。
「これは……祖母のものなんです」
布を開くと、小さな木製の整理棚が姿を現した。
時を経た木肌は艶を失わず、光を吸うように穏やかな色を湛えている。
細やかな唐草模様の彫り込み。四つの引き出し。
そのうちのひとつだけ、わずかにずれたまま、固く閉ざされていた。
「七回忌が終わったばかりで……実家を片付けていたら出てきたんです」
彼女はそう言いながら、まるで棚に触れることすら躊躇うように、手を引いた。
まひるは黙ってうなずき、棚にそっと手を伸ばす。
木の感触は、どこか懐かしく、そしてすこしだけ寂しさを含んでいた。
指先で彫りをなぞり、引き出しの縁に触れる。
「……実は、この引き出しだけ、どうしても開かないんです」
女性がふいに、早口で言葉をつなぐ。
「鍵も見つからなくて。たぶん、祖母が――わたしを許していないんじゃないかって……」
声が、ふっとか細くなった。
胸に張り詰めた感情があふれそうになったのか、彼女は目を伏せて俯く。
まつ毛が震え、その影が肌に落ちる。
まひるは棚から手を引き、自身の呼吸を一度整えるように目を閉じた。
この小さな棚が纏っている空気――それはとても静かで、けれど確かな想いを湛えているように感じられた。
(違う。閉ざされた引き出しは、怒っているんじゃない。……ただ、まだ伝えたいことがあるだけだ)
まひるは、それを感じ取った。
棚は語らない。ただ、沈黙の中に、確かな気配をにじませている。
その気配に耳を澄ませること――それが、まひるの仕事だった。
「大丈夫ですよ。ゆっくりと、この子の声を聞いてみましょう」
まひるの言葉に、女性の肩がわずかに揺れた。
それは、張り詰めていた糸がほんの少し緩んだような、かすかな動きだった。
日だまりの中、整理棚は長い眠りから目を覚ましかけているように、静かに佇んでいた。
そこには、まだ語られていない記憶と、手放せない想いが確かに息づいている。
「……さっき許していない、と仰いましたよね?」
まひるは声を確認するように、問いかけた。
その声音は、問いかけというよりも、空気に沈んでいたひとしずくの疑問を、丁寧にすくい上げたようだった。
女性は、肩をわずかに揺らし、唇の端を歪める。
それは笑みと呼ぶには寂しく、自嘲にも似た影をまとっていた。
「思い込みですよね。こんなの……」
彼女は目を伏せながら、かすかに息を吐く。
「でも……祖母が亡くなる前、私は一度も会いに行っていない薄情な孫なんです。仕事が忙しくて……言い訳ばかりして……そのまま、最期も看取れなかったんです」
淡い陽光の中で、彼女の声がゆるりとほどけてゆく。
言葉にすればするほど、それは重さを増し、胸の奥に沈んでいくようだった。
まひるはわずかに目を細め、女性をまっすぐに見つめた。
その瞳は否定でも慰めでもなく、ただありのままを受け止める静けさをたたえている。
それからまひるは、小さな整理棚に指を添える。
目を閉じ、集中して耳を澄ます。
(……音がする)
まひるの心の中に、微かな震えが走った。
それは人には聞こえない、小さな音――木が軋むような、古びた金属がそっと息を吐いたような、けれど確かに〝誰かの気持ち〟の音だった。
言葉にはならないけれど、確かにそこにある想い。
時を経て、形を変え、なお残ろうとする温度。
「……底板が、外れますよ」
まひるはゆっくりと棚を裏返し、小さな指先で板の縁をなぞるように撫でた。
柔らかく、祈るような手つきで、隠された仕掛けにそっと触れる。
「えっ?」
女性の瞳が見開かれる。
まひるは集中した面持ちで、棚の内側に指を差し入れ、軽く押し込む。
〝コツン〟――乾いた音が、畳の間に響いた。
板が、ほんのわずかにずれた。
「この板……外れるんですね」
女性が驚いた表情で、まひるの手元をのぞき込む。
指先が触れる部分に確かな感触を得て、まひるは慎重に底板を持ち上げた。
長い時をかけて守られていた小さな秘密が、その姿を現す。
「……こんな仕掛けがあったなんて」
女性の声は戸惑いと驚きのあいだで揺れていた。
思い出の棚。そこに、まだ知らない顔があったという事実に、彼女の心が追いつけていない。
底板の奥――そこには、丁寧に畳まれた小さな布袋と、時の重みを吸ったような、色あせた紙の束が身を潜めるように納まっていた。
まひるは呼吸を整え、丁寧に布袋を持ち上げる。
その中に込められたものがなんであれ、誰かの手が、想いが、確かにここに在り続けたのだと、そう感じさせる温度だった。
「たぶん……これが、鍵」
女性の手の中で、布袋がかすかに揺れた。
まひるが目を凝らすと、そこから現れたのは、小さな鍵。
長くしまわれていたことを語るように、鈍くくすんだ錆がその表面に浮いている。
それを見つめたまま、まひるはふっと息を吐くように笑った。
それは声にもならない、小さな安堵の音だった。
(木も鉄も、人も同じ。時間が経てば、表情も、音も、少しずつ変わっていく。だけど、芯に残るものは、いつだって大事なものなんだ)
目には見えないけれど、棚はずっとこの鍵を隠していた。
まるで、まだ伝えるべきことがあると知っていたかのように。
女性の視線が、鍵ではなく、もう一つの――紙の束へと移っていた。