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第1話 錆びた鍵と、開かずの引き出し①

 朝の光が、硝子戸越しにゆっくりと店内に差し込んでいた。

 陽だまりの中に浮かび上がる《古道具屋兼お道具預かり処日向庵》。

 畳の匂いに、古い木材のかすかな甘さが混じり合い、空気そのものに懐かしさが満ちていた。

 まひるは箒を持つ手をとめ、静かに耳を澄ませた。

 店先に吊るした鈴が、かすかに揺れていた。

――チリーン……。

 普段より、ほんの少しだけ重たい音。微かに迷ったような響きが、胸の奥にじんと染み入る。

(風が変わると、音の響きも変わる。今朝の鈴は、ちょっとだけ重たくて、少しだけ迷っていた。そんな音がする日は、決まって誰かが〝なにか〟を持ってくる)

 そんな確信にも似た直感が、胸の奥で小さく灯っていた。

 まひるは、箒を立てかけ、戸口へと視線を向ける。

 木枠の戸が少しだけ開いていた。

 そこに立っていたのは、二十代後半ほどの女性。

 生成りのワンピースの裾を不安そうにぎゅっと握り、どこか戸惑いを隠しきれない面持ち。彼女はまひると目が合うと小さく肩をすくめた。

「あの……すみません。ここって、古道具を引き取ってもらえるんですか?」

 その声には、ためらいと、わずかな罪悪感がにじんでいた。

 まひるは、穏やか微笑を浮かべ頷いた。

 「ええ。よろしければ中へどうぞ。お預かりし、お掃除して、お返しもできますよ」

 まひるの声は、包み込むように静かだった。

 その響きに安心したのか、女性は小さく頷いて店の中へと歩を進める。

 抱えていた紙袋の中から、丁寧に包まれた布包みをそっと取り出す。

「これは……祖母のものなんです」

 布を開くと、小さな木製の整理棚が姿を現した。

 時を経た木肌は艶を失わず、光を吸うように穏やかな色を湛えている。

 細やかな唐草模様の彫り込み。四つの引き出し。

 そのうちのひとつだけ、わずかにずれたまま、固く閉ざされていた。

「七回忌が終わったばかりで……実家を片付けていたら出てきたんです」

 彼女はそう言いながら、まるで棚に触れることすら躊躇うように、手を引いた。

 まひるは黙ってうなずき、棚にそっと手を伸ばす。

 木の感触は、どこか懐かしく、そしてすこしだけ寂しさを含んでいた。

 指先で彫りをなぞり、引き出しの縁に触れる。

「……実は、この引き出しだけ、どうしても開かないんです」

 女性がふいに、早口で言葉をつなぐ。

 「鍵も見つからなくて。たぶん、祖母が――わたしを許していないんじゃないかって……」

 声が、ふっとか細くなった。

 胸に張り詰めた感情があふれそうになったのか、彼女は目を伏せて俯く。

 まつ毛が震え、その影が肌に落ちる。

 まひるは棚から手を引き、自身の呼吸を一度整えるように目を閉じた。

 この小さな棚が纏っている空気――それはとても静かで、けれど確かな想いを湛えているように感じられた。

(違う。閉ざされた引き出しは、怒っているんじゃない。……ただ、まだ伝えたいことがあるだけだ)

 まひるは、それを感じ取った。

 棚は語らない。ただ、沈黙の中に、確かな気配をにじませている。

 その気配に耳を澄ませること――それが、まひるの仕事だった。

 「大丈夫ですよ。ゆっくりと、この子の声を聞いてみましょう」

 まひるの言葉に、女性の肩がわずかに揺れた。

 それは、張り詰めていた糸がほんの少し緩んだような、かすかな動きだった。

 日だまりの中、整理棚は長い眠りから目を覚ましかけているように、静かに佇んでいた。

 そこには、まだ語られていない記憶と、手放せない想いが確かに息づいている。

「……さっき許していない、と仰いましたよね?」

 まひるは声を確認するように、問いかけた。

 その声音は、問いかけというよりも、空気に沈んでいたひとしずくの疑問を、丁寧にすくい上げたようだった。

 女性は、肩をわずかに揺らし、唇の端を歪める。

 それは笑みと呼ぶには寂しく、自嘲にも似た影をまとっていた。

「思い込みですよね。こんなの……」

 彼女は目を伏せながら、かすかに息を吐く。

「でも……祖母が亡くなる前、私は一度も会いに行っていない薄情な孫なんです。仕事が忙しくて……言い訳ばかりして……そのまま、最期も看取れなかったんです」

 淡い陽光の中で、彼女の声がゆるりとほどけてゆく。

 言葉にすればするほど、それは重さを増し、胸の奥に沈んでいくようだった。

 まひるはわずかに目を細め、女性をまっすぐに見つめた。

 その瞳は否定でも慰めでもなく、ただありのままを受け止める静けさをたたえている。

 それからまひるは、小さな整理棚に指を添える。

 目を閉じ、集中して耳を澄ます。

(……音がする)

 まひるの心の中に、微かな震えが走った。

 それは人には聞こえない、小さな音――木が軋むような、古びた金属がそっと息を吐いたような、けれど確かに〝誰かの気持ち〟の音だった。

 言葉にはならないけれど、確かにそこにある想い。

 時を経て、形を変え、なお残ろうとする温度。

「……底板が、外れますよ」

 まひるはゆっくりと棚を裏返し、小さな指先で板の縁をなぞるように撫でた。

 柔らかく、祈るような手つきで、隠された仕掛けにそっと触れる。

「えっ?」

 女性の瞳が見開かれる。

 まひるは集中した面持ちで、棚の内側に指を差し入れ、軽く押し込む。

〝コツン〟――乾いた音が、畳の間に響いた。

 板が、ほんのわずかにずれた。

「この板……外れるんですね」

 女性が驚いた表情で、まひるの手元をのぞき込む。

 指先が触れる部分に確かな感触を得て、まひるは慎重に底板を持ち上げた。

 長い時をかけて守られていた小さな秘密が、その姿を現す。

「……こんな仕掛けがあったなんて」

 女性の声は戸惑いと驚きのあいだで揺れていた。

 思い出の棚。そこに、まだ知らない顔があったという事実に、彼女の心が追いつけていない。

 底板の奥――そこには、丁寧に畳まれた小さな布袋と、時の重みを吸ったような、色あせた紙の束が身を潜めるように納まっていた。

 まひるは呼吸を整え、丁寧に布袋を持ち上げる。

 その中に込められたものがなんであれ、誰かの手が、想いが、確かにここに在り続けたのだと、そう感じさせる温度だった。

「たぶん……これが、鍵」

 女性の手の中で、布袋がかすかに揺れた。

 まひるが目を凝らすと、そこから現れたのは、小さな鍵。

 長くしまわれていたことを語るように、鈍くくすんだ錆がその表面に浮いている。

 それを見つめたまま、まひるはふっと息を吐くように笑った。

 それは声にもならない、小さな安堵の音だった。

(木も鉄も、人も同じ。時間が経てば、表情も、音も、少しずつ変わっていく。だけど、芯に残るものは、いつだって大事なものなんだ)

 目には見えないけれど、棚はずっとこの鍵を隠していた。

 まるで、まだ伝えるべきことがあると知っていたかのように。

 女性の視線が、鍵ではなく、もう一つの――紙の束へと移っていた。

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