祖母が何年も使ってきた帳面。
墨がにじみ、紙の角がやわらかく丸まったそれは、どこか〝ひと〟のようにあたたかい。
深く息を吸い、吐く。
筆先を紙に乗せる。呼吸を合わせるように、ゆっくりと文字を刻む。
《小物入れ/木製/外傷なし・表面摩耗/磨き途中、〝音〟が返る。――おかえりなさい》
書き終えたあと、まひるは少しだけ筆を浮かせたまま、手を止めた。
墨のにおいが鼻をかすめる。畳の上に落ちた夕陽が、ページに淡い金色を灯していた。
(うまく書けなくても、いい。はっきり聞こえたわけじゃない。でも――たしかに〝返ってきた〟感覚があった)
それは、かすかな気配のような、風が頬を撫でるような、微細な〝つながり〟だった。
意味をなす言葉ではなく、でも、心に触れる音だった。
墨が乾くのを待つ間、まひるはそっと筆を置いた。
そのしぐさもまた、誰かの背中をなぞるように、慎重でやさしい。
障子の向こうでは、太陽が西の山に沈みかけている。
影が長くなり、室内の静けさが、いっそう深まっていった。
庭先には、雨上がりの柿の葉がまだわずかに濡れていた。
まひるは縁側にしゃがみ込み、取り込んでいた洗濯物を手にすると、一枚ずつ丁寧に畳んでいく。
風が通り抜け、乾いた布の間にかすかにお日さまの匂いが混じる。
その瞬間、まひるの中にふっと浮かんだ思いがあった。
(この家は、〝終わった〟場所じゃなかった。〝始めることを許してくれる場所〟だったんだ)
逃げてきたつもりだった。
でも、そこにあったのは罰ではなく、静かな肯定だった。
洗濯物を畳み終えると、まひるは庭に降り、軒下の梁に風鈴を一つ、そっと掛け直す。
金属の細い輪が、きらりと西日にきらめく。
風が吹き、鈴が鳴った。
――チリン……。
それは、以前聞いた音よりも、すこし澄んでいた。
どこかで、誰かが頷いた。そんな気がした。
「……ただいま」
まひるは、小さくつぶやいた。
声が喉から零れた瞬間、胸の奥がすうっと軽くなった気がした。
(声が戻ってきた。道具の声も、自分の声も)
それはすでに失ってしまったと思っていたもの。
でも、本当は失ってなどいなかった。
(失ったわけじゃなかった。ただ、〝聞こうとする気持ち〟が、どこかに置き去りになっていただけだったんだ)
風鈴が、もう一度、小さく揺れた。
まひるはそれを見上げながら、胸の奥にほんのりと灯ったあたたかさを噛みしめた。
もう一度、耳を澄まそう。――心の音に、道具の気配に、そして、過去から続く声に。
新しい《日向庵》の時間が、ゆっくりと動き出していた。
◇◇◇◇◇
夜の《日向庵》。
作業間の灯りは淡く、天井の梁に映る影はゆっくりと揺れていた。
まひるは椅子に腰かけ、磨き布を手にしていた。
目の前には、修繕を待ついくつかの道具たち――使い込まれた鉄瓶、古びた硯、ひとつだけ欠けた陶器の器。
それらはどれも静かに、けれどどこか〝生きている〟ような気配を湛えている。
まひるは、ひとつひとつをゆっくり撫でていく。
〝大丈夫だよ〟と声をかけるように。
すべてがわかるわけじゃない。でも、だからこそ、心で触れるように、耳を澄ますように。
(道具も、人も、〝壊れている〟って決めつけちゃいけない。ただ言葉にならないだけで、まだ伝えたいことがきっとあるんだ)
器の縁に布を滑らせたとき、彼女の指先がふと止まった。
冷たくなっていたはずの磁器が、ほんのわずかにあたたかかった。
次の瞬間――〝ことん〟と、棚の上で小さな音が鳴った。
続いて、どこからか〝しゃらん……〟という鈴のような音。
空気がふるえた。
けれどそれは、風のせいではなかった。
(聞こえる……ちゃんと聞こえている)
その音はまるで、「ありがとう」と言っているようだった。
言葉ではなく、記憶のような気配。
確かに、どこかと繋がっていた感覚。
まひるは、思わず両手で器を包み込んだ。
こわごわではなく、どこか懐かしむように。
『……おかえり』
彼女の胸の奥に、ぽっと灯るものがあった。
それは迷いでも、義務でもない。
〝また聴ける〟という確信だった。
数日後、やわらかな春の光が作業間を満たしていた。
障子を透かして入る陽の光に照らされながら、まひるは入口の暖簾をかけ直した。
その横には、新しく掛けた札が揺れている。
墨で書かれた文字は、祖母の書体をなぞるようなやさしい
まだ、訪れる人はいない。
けれど空気は、整っていた。
風も、光も、道具たちの佇まいも、すべてが〝受け入れてくれている〟ようだった。
「急がなくていい。焦らなくていい。わたしの耳と手で、ひとつずつやっていこう」
まひるは、独りごとのように小さくつぶやいた。
けれどその言葉は、彼女自身にとっての〝誓い〟だった。
(ここでまた、始めてみよう。わたしの声と、道具たちの声を、もう一度つなぐために)
風が吹いた。
縁側に吊るした風鈴が、涼やかに高く鳴った。
その音は、屋敷の中を越えて、庭の向こうへ、町の向こうへ――まるで、遠くにいる誰かへとやさしく呼びかけているようだった。
まひるは、暖簾の先の道を見つめる。
何も始まっていないようで、何かがもう始まっている。
静かな《日向庵》の中で、目には見えない〝声〟たちが、少しずつ、確かに動き出していた。