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第0話 陽だまりの帰り道⑥

 祖母が何年も使ってきた帳面。

 墨がにじみ、紙の角がやわらかく丸まったそれは、どこか〝ひと〟のようにあたたかい。

 深く息を吸い、吐く。

 筆先を紙に乗せる。呼吸を合わせるように、ゆっくりと文字を刻む。

《小物入れ/木製/外傷なし・表面摩耗/磨き途中、〝音〟が返る。――おかえりなさい》

 書き終えたあと、まひるは少しだけ筆を浮かせたまま、手を止めた。

 墨のにおいが鼻をかすめる。畳の上に落ちた夕陽が、ページに淡い金色を灯していた。

(うまく書けなくても、いい。はっきり聞こえたわけじゃない。でも――たしかに〝返ってきた〟感覚があった)

 それは、かすかな気配のような、風が頬を撫でるような、微細な〝つながり〟だった。

 意味をなす言葉ではなく、でも、心に触れる音だった。

 墨が乾くのを待つ間、まひるはそっと筆を置いた。

 そのしぐさもまた、誰かの背中をなぞるように、慎重でやさしい。

 障子の向こうでは、太陽が西の山に沈みかけている。

 影が長くなり、室内の静けさが、いっそう深まっていった。

 庭先には、雨上がりの柿の葉がまだわずかに濡れていた。

 まひるは縁側にしゃがみ込み、取り込んでいた洗濯物を手にすると、一枚ずつ丁寧に畳んでいく。

 風が通り抜け、乾いた布の間にかすかにお日さまの匂いが混じる。

 その瞬間、まひるの中にふっと浮かんだ思いがあった。

(この家は、〝終わった〟場所じゃなかった。〝始めることを許してくれる場所〟だったんだ)

 逃げてきたつもりだった。

 でも、そこにあったのは罰ではなく、静かな肯定だった。

 洗濯物を畳み終えると、まひるは庭に降り、軒下の梁に風鈴を一つ、そっと掛け直す。

 金属の細い輪が、きらりと西日にきらめく。

 風が吹き、鈴が鳴った。

 ――チリン……。

 それは、以前聞いた音よりも、すこし澄んでいた。

 どこかで、誰かが頷いた。そんな気がした。

「……ただいま」

 まひるは、小さくつぶやいた。

 声が喉から零れた瞬間、胸の奥がすうっと軽くなった気がした。

(声が戻ってきた。道具の声も、自分の声も)

 それはすでに失ってしまったと思っていたもの。

 でも、本当は失ってなどいなかった。

(失ったわけじゃなかった。ただ、〝聞こうとする気持ち〟が、どこかに置き去りになっていただけだったんだ)

 風鈴が、もう一度、小さく揺れた。

 まひるはそれを見上げながら、胸の奥にほんのりと灯ったあたたかさを噛みしめた。

 もう一度、耳を澄まそう。――心の音に、道具の気配に、そして、過去から続く声に。

 新しい《日向庵》の時間が、ゆっくりと動き出していた。

◇◇◇◇◇

 夜の《日向庵》。

 作業間の灯りは淡く、天井の梁に映る影はゆっくりと揺れていた。

 まひるは椅子に腰かけ、磨き布を手にしていた。

 目の前には、修繕を待ついくつかの道具たち――使い込まれた鉄瓶、古びた硯、ひとつだけ欠けた陶器の器。

 それらはどれも静かに、けれどどこか〝生きている〟ような気配を湛えている。

 まひるは、ひとつひとつをゆっくり撫でていく。

 〝大丈夫だよ〟と声をかけるように。

 すべてがわかるわけじゃない。でも、だからこそ、心で触れるように、耳を澄ますように。

(道具も、人も、〝壊れている〟って決めつけちゃいけない。ただ言葉にならないだけで、まだ伝えたいことがきっとあるんだ)

 器の縁に布を滑らせたとき、彼女の指先がふと止まった。

 冷たくなっていたはずの磁器が、ほんのわずかにあたたかかった。

 次の瞬間――〝ことん〟と、棚の上で小さな音が鳴った。

 続いて、どこからか〝しゃらん……〟という鈴のような音。

 空気がふるえた。

 けれどそれは、風のせいではなかった。

(聞こえる……ちゃんと聞こえている)

 その音はまるで、「ありがとう」と言っているようだった。

 言葉ではなく、記憶のような気配。

 確かに、どこかと繋がっていた感覚。

 まひるは、思わず両手で器を包み込んだ。

 こわごわではなく、どこか懐かしむように。

『……おかえり』

 彼女の胸の奥に、ぽっと灯るものがあった。

 それは迷いでも、義務でもない。

 〝また聴ける〟という確信だった。

 数日後、やわらかな春の光が作業間を満たしていた。

 障子を透かして入る陽の光に照らされながら、まひるは入口の暖簾をかけ直した。

 その横には、新しく掛けた札が揺れている。

 墨で書かれた文字は、祖母の書体をなぞるようなやさしい筆致古道具屋兼お道具預かり処日向庵

 まだ、訪れる人はいない。

 けれど空気は、整っていた。

 風も、光も、道具たちの佇まいも、すべてが〝受け入れてくれている〟ようだった。

「急がなくていい。焦らなくていい。わたしの耳と手で、ひとつずつやっていこう」

 まひるは、独りごとのように小さくつぶやいた。

 けれどその言葉は、彼女自身にとっての〝誓い〟だった。

(ここでまた、始めてみよう。わたしの声と、道具たちの声を、もう一度つなぐために)

 風が吹いた。

 縁側に吊るした風鈴が、涼やかに高く鳴った。

 その音は、屋敷の中を越えて、庭の向こうへ、町の向こうへ――まるで、遠くにいる誰かへとやさしく呼びかけているようだった。

 まひるは、暖簾の先の道を見つめる。

 何も始まっていないようで、何かがもう始まっている。

 静かな《日向庵》の中で、目には見えない〝声〟たちが、少しずつ、確かに動き出していた。

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