◇◇◇◇◇
翌朝。
仏間には、やわらかな陽が射し込んでいる。障子越しに揺れる光が、部屋全体を淡く金色に染める。
まひるは、膝をついて仏壇の前に座っていた。
澄江の遺影は、穏やかな笑みを浮かべている。その背には、秋の光をまとった庭の柿の木。
「……おばあちゃんったら、何も言わずに行っちゃうんだもん……ずるいよ」
呟いたその言葉は、涙ではなく、ひとつのため息のように、微かに空気に溶けていった。
仏壇の脇にある桐の箱。
ふと目をやると、その中に香の束と並んで、一通の封筒が置かれていた。昨日見つけた澄江からまひるへの手紙。
それを見た途端、胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
炬燵のある居間へ戻ると、彼女はそれに足を入れ、再び封筒を開いた。
和紙の手触りは、祖母が選ぶものらしく、厚みと温かさがあった。墨の筆跡はところどころ滲んでいて、それがかえって、書かれたときの呼吸を想わせた。
それは、責めるでも、諭すでもない。
ただ、まひるの〝痛み〟を知ってくれていた人が綴る言葉。
炬燵のぬくもりが、じんわりと膝から胸元へと伝わってくる。
外ではまだ冷たい風が吹いていたが、この家の中だけは、いつも誰かが待っていてくれるような静けさがあった。
まひるは、手紙を胸に当て、そっと目を閉じた。
(――ここに戻ってきて、よかった)
そう思わずにはいられない。
ふいに記憶が蘇る――それは、まひるがまだ東京にいた頃の記憶。
無機質な白い光が、淡々とまっすぐ降り注いでいた。
仕切りだけで区切られたブース。隣の息遣いが感じられるほどの距離。
狭く、逃げ場のない空間だった。
耳元では、電話の向こうから怒鳴り声がぶつかってくる。
「バカにしてんのか!」
「さっさと責任者にかわれよ!」
イヤホン越しに響くその声は、もはや言葉ではなく、衝撃音に近かった。
まひるはマウスに手をかけ、モニターの定型文をなぞるようにクリックする。
「……申し訳ございません……」
自分の声が、自分の口から出ているものではないような気がしていた。
繰り返されるやりとりに、徐々にでも確実に感情はすり減っていく。
(怒鳴られるのが怖いわけじゃなかった。わたしが何を言っても届かないという、あの虚しさが、ただただ苦しかった)
同僚たちの小さなため息。
休憩室では、誰もが黙ってスマートフォンを見つめていた。
そんな日々のなかで、まひるは、気づかないうちに〝自分の声〟を置き去りにしてきた。
(誰かの〝音〟に耳を澄ます余裕もなくなって、気がついたら、道具の声さえ……消えていた)
東京の雑踏のなかで、まひるの中から何かが、崩れていった。
でも今、彼女は《日向庵》の作業間に座っている。
畳の上に正座しながら、祖母からの手紙を読み終えたばかりだった。
温かな余韻が、胸の内でじんわりと広がっていた。
その隣に、祖母の古いノートが置かれているのに気づく。
表紙には、墨でこう書かれていた。
《道具ノオト》
まひるは、両手でそっとそのノートを持ち上げた。
開かれたページには、ひとつひとつの道具と向き合ってきた祖母の記録が、丁寧な筆致で綴られていた。
たとえば――
《茶櫃(ちゃびつ)/底割れ/ヒビの中から、祝いの唄がした》
《蓄音機/針の交換/〝ありがとう〟を繰り返すような響き》
《菓子器/欠け修復/塗り直すたびに、甘い香りが蘇った》
記録というにはあまりにも詩のようで、観察というにはあまりにも抽象的な表現に近かった。
(……やっぱり、おばあちゃんも、〝聞こえて〟いたんだね)
まひるは、確信を得た。
祖母は、一度も「これを継げ」とは言わなかった。
まひるに対して無理に道を示そうとすることもなかった。
ただ、待っていてくれた。
まひるが、もう一度〝声〟に耳を澄ませるそのときを――。
障子の向こうで、風鈴が一度、チリンと鳴った。
風が抜け、光が差し込み、道具たちが微かに呼吸しているような気配が広がっていく。
まひるは、そっとノートに手を置き、目を閉じた。
(もう一度……聞いてみたい)
かつて感じていた、あのぬくもりのような〝声〟を。
今度こそ、聞き逃さないように。
静かで静謐な朝が、ゆっくりと《日向庵》を包み込んでいった。
◇◇◇◇◇
雨が、屋根を細やかに叩いている。
夜の《日向庵》。すべてが眠っているはずの時間。
けれど、作業間の薄灯りの下には、まだひとつだけ、ゆっくりと動く影があった。
まひるは布を握り、木箪笥の表面を丁寧に磨いていた。
懐かしい手触り。湿り気を含んだ木の温度が、ゆっくりと指先へ染みてくる。
(わたしは、壊れてしまったんだと思っていた。でも――おばあちゃんは、〝疲れただけだよ〟って、言ってくれた)
その言葉を思い出すたび、胸の奥で何かがじんわりと解けていく。
まひるは自分を許すことを、ずっと忘れていたのだと気づかされた。
布越しに触れた取っ手が、ふと、わずかに熱を帯びた。
そこから、まるで音のような気配がふわりと立ち上る。
――カタン。
引き出しが、ひとりでに小さく揺れた。
空気の流れでも地の振動でもなく、確かに、そこにはどうぐの〝気持ち〟が在った。
(……まだ、全部は戻らない。でも、すこしずつ聞こえてくる)
雨音が徐々に途切れていくなかで、まひるの胸の奥に、穏やかでやわらかなぬくもりが宿っていた。
◇◇◇◇◇
昼下がりの作業間。
光が障子を透けて畳に淡い模様を描き、風は柱の隙間から出入りしている。
まひるは祖母の机に向かい、《道具ノオト》を開いていた。
その横には磨き布や刷毛、砥石や鑿など、祖母が愛用していた手道具が整然と並べられている。
ここは、絶えず音がする。小さな音――風の音、柱のきしむ音。
そして、道具たちの〝息づかい〟が、確かにある。
ふと、木箱が一つ、目に留まった。
深い茶色の蓋に細かな傷が刻まれ、角は丸く削れてささくれていた。
触れると、すぐにそれが長く使われていたものであることがわかる。
まひるは、ためらいながらも布を手に取り、箱の表面をゆっくりと磨いていく。
ほこりが舞い、わずかな香りが立ち上がる。木の香。時間の香。
(どうしても〝直せない〟なら、せめて、痛ましくないように。ただ、きれいにしてあげるだけでも、何かが変わるような気がする)
布が木の表面をすべるたび、きしきしという音が部屋に溶けていく。
――コトン。
そのときさっきまで沈黙していた箱が、かすかに音を発した。
まひるは、はっとして手を止める。
指先がわずかに震えるのを抑えながら、箱の表面をじっと見つめた。
(……今のは音。聞き間違いじゃないよね)
まるで、誰かがそこにそっと触れたような音。
風ではない。虫でもない。箱そのものが、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。
音ではない。言葉でもない。
それは、〝想い〟がふっと浮かび上がってきたような感覚。
まひるの胸の奥で、何かが反応する。
(聞こえる――まだ微かに、けれど確かに聞こえた)
祖母の声が重なるように、まひるの耳元でそっと囁いた気がした。
『――心で聞いてごらん。きっと、聞こえてくるから』
まひるは、その声に従うように箱の上に両手を置き、ゆっくりとまぶたを閉じた。
それからまひるは、《道具ノオト》の空白のページをそっと開き、筆ペンを手に取った。
その手には、まだほんのわずかに震えが残っていた。それでも――止める理由は、もうなかった。