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第0話 陽だまりの帰り道⑤

◇◇◇◇◇

 翌朝。

 仏間には、やわらかな陽が射し込んでいる。障子越しに揺れる光が、部屋全体を淡く金色に染める。

 まひるは、膝をついて仏壇の前に座っていた。

 澄江の遺影は、穏やかな笑みを浮かべている。その背には、秋の光をまとった庭の柿の木。

「……おばあちゃんったら、何も言わずに行っちゃうんだもん……ずるいよ」

 呟いたその言葉は、涙ではなく、ひとつのため息のように、微かに空気に溶けていった。

 仏壇の脇にある桐の箱。

 ふと目をやると、その中に香の束と並んで、一通の封筒が置かれていた。昨日見つけた澄江からまひるへの手紙。

 それを見た途端、胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

 炬燵のある居間へ戻ると、彼女はそれに足を入れ、再び封筒を開いた。

 和紙の手触りは、祖母が選ぶものらしく、厚みと温かさがあった。墨の筆跡はところどころ滲んでいて、それがかえって、書かれたときの呼吸を想わせた。

 それは、責めるでも、諭すでもない。

 ただ、まひるの〝痛み〟を知ってくれていた人が綴る言葉。

 炬燵のぬくもりが、じんわりと膝から胸元へと伝わってくる。

 外ではまだ冷たい風が吹いていたが、この家の中だけは、いつも誰かが待っていてくれるような静けさがあった。

 まひるは、手紙を胸に当て、そっと目を閉じた。

(――ここに戻ってきて、よかった)

 そう思わずにはいられない。

 ふいに記憶が蘇る――それは、まひるがまだ東京にいた頃の記憶。

 無機質な白い光が、淡々とまっすぐ降り注いでいた。

 仕切りだけで区切られたブース。隣の息遣いが感じられるほどの距離。

 狭く、逃げ場のない空間だった。

 耳元では、電話の向こうから怒鳴り声がぶつかってくる。

「バカにしてんのか!」

「さっさと責任者にかわれよ!」

 イヤホン越しに響くその声は、もはや言葉ではなく、衝撃音に近かった。

 まひるはマウスに手をかけ、モニターの定型文をなぞるようにクリックする。

「……申し訳ございません……」

 自分の声が、自分の口から出ているものではないような気がしていた。

 繰り返されるやりとりに、徐々にでも確実に感情はすり減っていく。

(怒鳴られるのが怖いわけじゃなかった。わたしが何を言っても届かないという、あの虚しさが、ただただ苦しかった)

 同僚たちの小さなため息。

 休憩室では、誰もが黙ってスマートフォンを見つめていた。

 そんな日々のなかで、まひるは、気づかないうちに〝自分の声〟を置き去りにしてきた。

(誰かの〝音〟に耳を澄ます余裕もなくなって、気がついたら、道具の声さえ……消えていた)

 東京の雑踏のなかで、まひるの中から何かが、崩れていった。

 でも今、彼女は《日向庵》の作業間に座っている。

 畳の上に正座しながら、祖母からの手紙を読み終えたばかりだった。

 温かな余韻が、胸の内でじんわりと広がっていた。

 その隣に、祖母の古いノートが置かれているのに気づく。

 表紙には、墨でこう書かれていた。

《道具ノオト》

 まひるは、両手でそっとそのノートを持ち上げた。

 開かれたページには、ひとつひとつの道具と向き合ってきた祖母の記録が、丁寧な筆致で綴られていた。

 たとえば――

《茶櫃(ちゃびつ)/底割れ/ヒビの中から、祝いの唄がした》

《蓄音機/針の交換/〝ありがとう〟を繰り返すような響き》

《菓子器/欠け修復/塗り直すたびに、甘い香りが蘇った》

 記録というにはあまりにも詩のようで、観察というにはあまりにも抽象的な表現に近かった。

(……やっぱり、おばあちゃんも、〝聞こえて〟いたんだね)

 まひるは、確信を得た。

 祖母は、一度も「これを継げ」とは言わなかった。

 まひるに対して無理に道を示そうとすることもなかった。

 ただ、待っていてくれた。

 まひるが、もう一度〝声〟に耳を澄ませるそのときを――。

 障子の向こうで、風鈴が一度、チリンと鳴った。

 風が抜け、光が差し込み、道具たちが微かに呼吸しているような気配が広がっていく。

 まひるは、そっとノートに手を置き、目を閉じた。

(もう一度……聞いてみたい)

 かつて感じていた、あのぬくもりのような〝声〟を。

 今度こそ、聞き逃さないように。

 静かで静謐な朝が、ゆっくりと《日向庵》を包み込んでいった。

◇◇◇◇◇

 雨が、屋根を細やかに叩いている。

 夜の《日向庵》。すべてが眠っているはずの時間。

 けれど、作業間の薄灯りの下には、まだひとつだけ、ゆっくりと動く影があった。

 まひるは布を握り、木箪笥の表面を丁寧に磨いていた。

 懐かしい手触り。湿り気を含んだ木の温度が、ゆっくりと指先へ染みてくる。

(わたしは、壊れてしまったんだと思っていた。でも――おばあちゃんは、〝疲れただけだよ〟って、言ってくれた)

 その言葉を思い出すたび、胸の奥で何かがじんわりと解けていく。

 まひるは自分を許すことを、ずっと忘れていたのだと気づかされた。

 布越しに触れた取っ手が、ふと、わずかに熱を帯びた。

 そこから、まるで音のような気配がふわりと立ち上る。

 ――カタン。

 引き出しが、ひとりでに小さく揺れた。

 空気の流れでも地の振動でもなく、確かに、そこにはどうぐの〝気持ち〟が在った。

(……まだ、全部は戻らない。でも、すこしずつ聞こえてくる)

 雨音が徐々に途切れていくなかで、まひるの胸の奥に、穏やかでやわらかなぬくもりが宿っていた。

◇◇◇◇◇

 昼下がりの作業間。

 光が障子を透けて畳に淡い模様を描き、風は柱の隙間から出入りしている。

 まひるは祖母の机に向かい、《道具ノオト》を開いていた。

 その横には磨き布や刷毛、砥石や鑿など、祖母が愛用していた手道具が整然と並べられている。

 ここは、絶えず音がする。小さな音――風の音、柱のきしむ音。

 そして、道具たちの〝息づかい〟が、確かにある。

 ふと、木箱が一つ、目に留まった。

 深い茶色の蓋に細かな傷が刻まれ、角は丸く削れてささくれていた。

 触れると、すぐにそれが長く使われていたものであることがわかる。

 まひるは、ためらいながらも布を手に取り、箱の表面をゆっくりと磨いていく。

 ほこりが舞い、わずかな香りが立ち上がる。木の香。時間の香。

(どうしても〝直せない〟なら、せめて、痛ましくないように。ただ、きれいにしてあげるだけでも、何かが変わるような気がする)

 布が木の表面をすべるたび、きしきしという音が部屋に溶けていく。

 ――コトン。

 そのときさっきまで沈黙していた箱が、かすかに音を発した。

 まひるは、はっとして手を止める。

 指先がわずかに震えるのを抑えながら、箱の表面をじっと見つめた。

(……今のは音。聞き間違いじゃないよね)

 まるで、誰かがそこにそっと触れたような音。

 風ではない。虫でもない。箱そのものが、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。

 音ではない。言葉でもない。

 それは、〝想い〟がふっと浮かび上がってきたような感覚。

 まひるの胸の奥で、何かが反応する。

(聞こえる――まだ微かに、けれど確かに聞こえた)

 祖母の声が重なるように、まひるの耳元でそっと囁いた気がした。

『――心で聞いてごらん。きっと、聞こえてくるから』

 まひるは、その声に従うように箱の上に両手を置き、ゆっくりとまぶたを閉じた。

 それからまひるは、《道具ノオト》の空白のページをそっと開き、筆ペンを手に取った。

 その手には、まだほんのわずかに震えが残っていた。それでも――止める理由は、もうなかった。

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