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第0話 陽だまりの帰り道④

《手当て済。音が戻る。再び、息づく》

(ここは、修理屋でも、道具屋でもなかった。おばあちゃんは、〝手当て〟って言ってた。誰かが大切にしていたものを整える場所――)

 まひるは帳簿を閉じ、ふと棚の上の急須に目を向ける。

 ふくらみのある陶器の胴が、夕日に照らされて、やわらかな陰影を帯びていた。

 その表面には使われてきたことがわかる痕跡が残っている。

 それは手放された道具。

 けれど、まだ〝何かを語りたがっている〟ようだった。

(――その声を、わたしはまた聞けるようになるだろうか)

 まひるは、そう心の中で呟きながら、そっと急須に触れた。

◇◇◇◇◇

 夜の《日向庵》。

 風のない夜、囲炉裏の小さな火だけが、畳の部屋をやわらかく照らしていた。

 まひるは湯を沸かす鉄瓶の側に膝を折り、湯気の立ちのぼる先を見つめている。

 部屋は静かだったが、火のゆらぎがどこか遠い記憶を撫でていく。

 パチと、囲炉裏の中で小枝がはぜる音。

 その音に重なるように――まひるの耳の奥で、幼いころの祖母の声がよみがえる。

『《日向庵》はね、あたしの祖母の代からやっているのよ。もとはもっと奥まった山里で、〝道具祓い〟をしていたらしいわ』

 あのときまひるは、まだ小学校に上がる前だった。

 夏の終わり、祖母の膝に頭を預け、団扇の風をあびながら、畳に寝転がっていた記憶がある。

「……どうぐ、はらい?」

 祖母はくすっとちいさく笑って、まひるの髪を優しく撫でた。

 その手のひらの温もりは、不思議と今もその箇所に残っているような気がする。

「そう。道具のけがれを払って、もう一度使えるようにするの。でもね、けがれって、汚れとは違うのよ。〝持つ人の想い〟が滞ると、道具も黙り込んじゃうの」

 湯気がふわりと立ち上り、夜気に溶けていく。

 まひるは現在の囲炉裏の前に戻りながらも、祖母の声の続きに心を委ねていた。

「わたしたちは、ただ直すんじゃない。〝語れなくなった道具の声〟を聞いて、もう一度、その心をほどくのよ」

 その言葉は、祖母の手仕事を何度も見てきたまひるの中で、確かな実感となって残っていた。

 祖母は、器を拭くときも、針を持つときも、いつでもまるで相手と言葉を交わすように丁寧だった。

 修繕というより〝対話〟。

 道具と向き合うその姿は、幼いまひるの目に、何か神聖な儀式のように映っていた。

 火がパチリと弾け、まひるの頬に一瞬だけ温かい風が触れる。

(おばあちゃんは、〝道具の声が聞こえる〟私を、怖がらなかった。むしろ、誇らしげにさえしていた)

 他人には信じてもらえなかったその感覚。

 引き出しの軋む音に含まれる悲しみや、急須の注ぎ口から漂うあの懐かしい〝安堵〟――幼い子どもだったまひるにとって、それはただの幻ではなかった。

 そして祖母は、そんな感覚をそこにあるものとして受け止めてくれた。

 それはまるで、自分にも昔、その〝声〟が聞こえていたかのように。

 囲炉裏の湯が、ふつふつと沸き始める。

 その音に、まひるはふと現実に引き戻される。

 祖母はもうこの世にはいない。

 けれど、声は今も――この屋敷のどこかで、確かに息づいている。そう思えてならなかった。

 夕暮れの色が、障子の隙間から淡く滲みはじめていた。作業机に差し込む光も、刻一刻と赤みを帯びていく。

 まひるは、祖母の帳簿をめくる手を止めた。何かに呼ばれるような感覚が、指先に微かに伝わってきたのだ。

 ふと視線を落とすと、帳簿の裏側――厚い表紙と背のあいだに、一枚の封筒がひっそりと挟まっていた。

 薄茶の和封筒。筆で書かれた文字は、年季が入りながらもしっかりと残っている。

「……まひるへ……わたし宛?」

 声にならない息が、唇からこぼれる。

 まひるは手を止めたまま、しばらくの間、封筒を見つめていた。文字の筆圧、余白の取り方。祖母の癖を、身体が覚えている。

「……おばあちゃん……」

 そっと封を開けると、中からやわらかな手触りの和紙が現れた。

 まひるは両手で紙を支え、静かに読み上げる。

《まひるへ。

 この家を無理に継がなくてもいいの。

 でも、もし心が疲れたら、ここに戻っておいで。

 道具たちは、黙って待っていてくれているから。

 あなたが〝聞こう〟と思ったそのとき、きっとまたみんなの声が届くわ》

 声に出すことで、紙の中に眠っていた〝気配〟が、ふっと目を覚ましたようだった。

(……おばあちゃんは、やっぱり知っていたんだ。わたしが、いずれ〝聞こえなくなる〟ことを……)

 まひるは手紙を胸に抱いたまま、まぶたを閉じる。

 外から、風の音に混じって、風鈴の小さな音が――遠い記憶のように響いていた。

 それは、まだまひるが中学生になる前のことだった。

 祖母と一緒に、町を歩いていた日の記憶。

 初夏の光が路地にさす午後。

 ふたりは手押しの木箱をガラガラと引きながら、あちこちの家を回っていた。

 門の横には古びた桐箪笥が立てかけられ、縁側には欠けた急須、脚のぐらつく古ラジオ。

 それらすべてが、静かに――でも確かに――まひるの耳に〝音〟を届けていた。

「澄江さん、またお願いしてもええかの」

 年配の女性が、腰を曲げてやってきた。

「娘の嫁入り道具でね……捨てられんのよ」

 祖母は頷き、箪笥の角を撫でた。

「はいはい、大丈夫。時間はかかるかもしれませんけど、ちゃんと〝お返し〟しますからね」

 そのとき、〝直す〟ではなく〝返す〟という言葉の選び方がされていたことを、まひるは今になって思い出す。

(おばあちゃんは……この町で、ただの〝修理屋〟じゃなかったんだ)

 割れた器をつなぎ、古い木箱を整え、ただ形を元に戻すのではなく――そこに宿っていた想い、言葉にならなかった誰かの祈りを、もう一度紡ぎなおしていた。

 その姿が、子どもの頃は不思議でたまらなかった。

 けれど今は、痛いほどに胸に沁みる。

 机の上、和紙の手紙に光が差し込んだ。

 まひるは、それを両手で包み込むようにして、慎重に胸の上に載せた。

 それは、もうどこにも返せない言葉。

 けれど確かに――〝いま〟届いた言葉だった。

 夜が更けていくにつれ、《日向庵》は、ますますその静けさを深めていく。

 月の光が庭先を照らし、磨かれたガラス戸に銀の筋を落としている。

 まひるは、作業間にいた。

 祖母がいつも向かっていた低い机。その表面に薄く積もった埃を、柔らかい布で黙々と拭っている。

 力は込めない。ただなぞるだけ。

 その仕草は、遠い日の記憶に触れるようだった。祖母の背中に触れる。そのような優しい手つき。

 (〝直す〟ことはできなくても、〝癒す〟ことはきっとできる。そう信じて、道具と向き合っていた――わたしのおばあちゃん)

 机の木目から、ふと懐かしい香りが立ち上がったような気がした。

 それは、かつてここで焙じ茶が湯気を立てていたときの記憶。

 火鉢の灰の音、道具たちの囁き、そして、優しく問いかける祖母の声。

 机を拭き終えたまひるは、深くひとつ息を吐き、丁寧に手を合わせた。

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