《手当て済。音が戻る。再び、息づく》
(ここは、修理屋でも、道具屋でもなかった。おばあちゃんは、〝手当て〟って言ってた。誰かが大切にしていたものを整える場所――)
まひるは帳簿を閉じ、ふと棚の上の急須に目を向ける。
ふくらみのある陶器の胴が、夕日に照らされて、やわらかな陰影を帯びていた。
その表面には使われてきたことがわかる痕跡が残っている。
それは手放された道具。
けれど、まだ〝何かを語りたがっている〟ようだった。
(――その声を、わたしはまた聞けるようになるだろうか)
まひるは、そう心の中で呟きながら、そっと急須に触れた。
◇◇◇◇◇
夜の《日向庵》。
風のない夜、囲炉裏の小さな火だけが、畳の部屋をやわらかく照らしていた。
まひるは湯を沸かす鉄瓶の側に膝を折り、湯気の立ちのぼる先を見つめている。
部屋は静かだったが、火のゆらぎがどこか遠い記憶を撫でていく。
パチと、囲炉裏の中で小枝がはぜる音。
その音に重なるように――まひるの耳の奥で、幼いころの祖母の声がよみがえる。
『《日向庵》はね、あたしの祖母の代からやっているのよ。もとはもっと奥まった山里で、〝道具祓い〟をしていたらしいわ』
あのときまひるは、まだ小学校に上がる前だった。
夏の終わり、祖母の膝に頭を預け、団扇の風をあびながら、畳に寝転がっていた記憶がある。
「……どうぐ、はらい?」
祖母はくすっとちいさく笑って、まひるの髪を優しく撫でた。
その手のひらの温もりは、不思議と今もその箇所に残っているような気がする。
「そう。道具のけがれを払って、もう一度使えるようにするの。でもね、けがれって、汚れとは違うのよ。〝持つ人の想い〟が滞ると、道具も黙り込んじゃうの」
湯気がふわりと立ち上り、夜気に溶けていく。
まひるは現在の囲炉裏の前に戻りながらも、祖母の声の続きに心を委ねていた。
「わたしたちは、ただ直すんじゃない。〝語れなくなった道具の声〟を聞いて、もう一度、その心をほどくのよ」
その言葉は、祖母の手仕事を何度も見てきたまひるの中で、確かな実感となって残っていた。
祖母は、器を拭くときも、針を持つときも、いつでもまるで相手と言葉を交わすように丁寧だった。
修繕というより〝対話〟。
道具と向き合うその姿は、幼いまひるの目に、何か神聖な儀式のように映っていた。
火がパチリと弾け、まひるの頬に一瞬だけ温かい風が触れる。
(おばあちゃんは、〝道具の声が聞こえる〟私を、怖がらなかった。むしろ、誇らしげにさえしていた)
他人には信じてもらえなかったその感覚。
引き出しの軋む音に含まれる悲しみや、急須の注ぎ口から漂うあの懐かしい〝安堵〟――幼い子どもだったまひるにとって、それはただの幻ではなかった。
そして祖母は、そんな感覚をそこにあるものとして受け止めてくれた。
それはまるで、自分にも昔、その〝声〟が聞こえていたかのように。
囲炉裏の湯が、ふつふつと沸き始める。
その音に、まひるはふと現実に引き戻される。
祖母はもうこの世にはいない。
けれど、声は今も――この屋敷のどこかで、確かに息づいている。そう思えてならなかった。
夕暮れの色が、障子の隙間から淡く滲みはじめていた。作業机に差し込む光も、刻一刻と赤みを帯びていく。
まひるは、祖母の帳簿をめくる手を止めた。何かに呼ばれるような感覚が、指先に微かに伝わってきたのだ。
ふと視線を落とすと、帳簿の裏側――厚い表紙と背のあいだに、一枚の封筒がひっそりと挟まっていた。
薄茶の和封筒。筆で書かれた文字は、年季が入りながらもしっかりと残っている。
「……まひるへ……わたし宛?」
声にならない息が、唇からこぼれる。
まひるは手を止めたまま、しばらくの間、封筒を見つめていた。文字の筆圧、余白の取り方。祖母の癖を、身体が覚えている。
「……おばあちゃん……」
そっと封を開けると、中からやわらかな手触りの和紙が現れた。
まひるは両手で紙を支え、静かに読み上げる。
《まひるへ。
この家を無理に継がなくてもいいの。
でも、もし心が疲れたら、ここに戻っておいで。
道具たちは、黙って待っていてくれているから。
あなたが〝聞こう〟と思ったそのとき、きっとまたみんなの声が届くわ》
声に出すことで、紙の中に眠っていた〝気配〟が、ふっと目を覚ましたようだった。
(……おばあちゃんは、やっぱり知っていたんだ。わたしが、いずれ〝聞こえなくなる〟ことを……)
まひるは手紙を胸に抱いたまま、まぶたを閉じる。
外から、風の音に混じって、風鈴の小さな音が――遠い記憶のように響いていた。
それは、まだまひるが中学生になる前のことだった。
祖母と一緒に、町を歩いていた日の記憶。
初夏の光が路地にさす午後。
ふたりは手押しの木箱をガラガラと引きながら、あちこちの家を回っていた。
門の横には古びた桐箪笥が立てかけられ、縁側には欠けた急須、脚のぐらつく古ラジオ。
それらすべてが、静かに――でも確かに――まひるの耳に〝音〟を届けていた。
「澄江さん、またお願いしてもええかの」
年配の女性が、腰を曲げてやってきた。
「娘の嫁入り道具でね……捨てられんのよ」
祖母は頷き、箪笥の角を撫でた。
「はいはい、大丈夫。時間はかかるかもしれませんけど、ちゃんと〝お返し〟しますからね」
そのとき、〝直す〟ではなく〝返す〟という言葉の選び方がされていたことを、まひるは今になって思い出す。
(おばあちゃんは……この町で、ただの〝修理屋〟じゃなかったんだ)
割れた器をつなぎ、古い木箱を整え、ただ形を元に戻すのではなく――そこに宿っていた想い、言葉にならなかった誰かの祈りを、もう一度紡ぎなおしていた。
その姿が、子どもの頃は不思議でたまらなかった。
けれど今は、痛いほどに胸に沁みる。
机の上、和紙の手紙に光が差し込んだ。
まひるは、それを両手で包み込むようにして、慎重に胸の上に載せた。
それは、もうどこにも返せない言葉。
けれど確かに――〝いま〟届いた言葉だった。
夜が更けていくにつれ、《日向庵》は、ますますその静けさを深めていく。
月の光が庭先を照らし、磨かれたガラス戸に銀の筋を落としている。
まひるは、作業間にいた。
祖母がいつも向かっていた低い机。その表面に薄く積もった埃を、柔らかい布で黙々と拭っている。
力は込めない。ただなぞるだけ。
その仕草は、遠い日の記憶に触れるようだった。祖母の背中に触れる。そのような優しい手つき。
(〝直す〟ことはできなくても、〝癒す〟ことはきっとできる。そう信じて、道具と向き合っていた――わたしのおばあちゃん)
机の木目から、ふと懐かしい香りが立ち上がったような気がした。
それは、かつてここで焙じ茶が湯気を立てていたときの記憶。
火鉢の灰の音、道具たちの囁き、そして、優しく問いかける祖母の声。
机を拭き終えたまひるは、深くひとつ息を吐き、丁寧に手を合わせた。