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第0話 陽だまりの帰り道③

◇◇◇◇◇

 坂を登っりきった先で、まひるの足が再び止まった。

 そこには、ひときわ古びた日本家屋が佇んでいる。

 瓦屋根の上には、小さな草がこぼれるように根を張り、日を吸った木の壁はあたたかい色で町の朝を抱きとめていた。

 家の前、柿の木が寒さの中で枝を広げ、門の脇には年季の入った木札が掛けられている。

《日向庵》

 まひるは、しばらくのあいだ木札の字面を見つめていた。

 それは見慣れた表札なのに、年月を経て別人の顔になった親戚のようでもあり、それでも、やはり変わらずそこにいてくれたもの。

 ふと、風が吹いた。

 軒先に吊るされた風鈴が、かすかに揺れる。

 音は鳴らなかった。

 けれど、その動きは、確かに〝待っていた〟ことをまひるに告げている。

「……ただいま」

 その言葉は、思いがけず口をついて出た。

 門のそばにある木製の郵便受けに手を差し入れる。

 中には、小さな布袋に入った鉄鍵があった。

 錆の浮いた金属の感触が指に触れた瞬間、まひるの心にふいに、じんわりとあたたかいものが流れ込んできた。

 玄関の引き戸を開ける。

 ぎぃ……という古びた音が、朝の空気にゆっくりと溶けていく。

 その音は、まひるの耳に確かに届いた。

 かつて、毎朝ここで鳴っていた音。

 祖母が手を伸ばし、閉め、また開く。それは間違いなく暮らしの音だった。

 玄関を開けると、ひんやりとした空気が足元から這い上がってくる。

 空気の温度が、変わったような気がした。

 それは外の冷たさとは違って、長い間閉ざされていた場所特有の静けさを孕んだ冷気だった。

 まひるは一歩、敷居をまたぐ。

 革靴を脱ぎ、指先でそっと縁側の木を撫でる。

 乾いているようで、ほんのりとした温かみが木目の奥から滲む。

 畳の香りが鼻先をくすぐった。

 それに混じって、ほうじ茶の香ばしい残り香――今朝まで誰かがここで暮らしていたような気配が、そこにあった。

 まひるは、ゆっくりと目を閉じる。

(……この音、この匂い、この手触り……)

 心の中で呟くと、胸の奥の熱が一層広がる。

 ――あの頃。

 夏の午後、陽だまりの縁側で寝転んでいたこと。

 蚊取り線香の煙が輪を描いて、祖母がうちわをゆっくり動かしながら、笑っていたこと。

 畳のひんやりとした感触、遠くで蝉が鳴く音、風鈴が優しく揺れる気配――それらすべてが、鮮やかな記憶として蘇ってくる。

『まひる、お道具ってね、心があるのよ』

 あのときの祖母の声が、耳元にやわらかく降りてくる。

『耳を澄ましていると、お話をしてくれるの』

 扇風機の柔らかな風が、祖母の白髪を揺らしていた。

「お話……するの? ほんとに?」

 幼いまひるが聞き返すと、祖母は目を細めて笑い、頷いた。

『ふふ、ほんとよ。心で聞いてみて。きっと、聞こえてくるから』

 そのときは、よくわからなかった。

 でもその言葉だけは、不思議とずっと胸に残っていた――まるで、お守りのように。

 まひるは廊下を進んでいく。

 床板が、ぎしり、と懐かしい音を立てた。

 台所には、もう誰もいないはずなのに、かすかに炊き立てのご飯のような匂いが残っていた。

 仏間の障子越しには、朝のやわらかい光が差し込んでいる。

 書斎の机には、丁寧に束ねられた紙束が残されていた。

 すべての部屋に、誰かが最後までここを大切に使っていた痕跡を感じる。

 埃は少し積もっているけれど、決して放置された空間ではない。

 柱の角はゆるやかに摩耗し、椅子の背には祖母の背中の温もりがまだ残っているようだった。

「おばあちゃんは……ひとりで、この家を守っていたんだね」

 まひるは、ふと呟いた。

 その声もまた、この家の静けさの中に吸い込まれていく。

 あの頃と、同じ匂い。

 あの頃と、同じ静けさ。

 けれどそこには、時間の経過が育てた、少しだけ違う〝重さ〟もあった。

 まひるは、茶の間の片隅に置かれた茶箪笥の前で足を止める。

 その茶箪笥は、祖母が日々の暮らしの中で大切に使い続けていたものだ。

 急須や湯呑が整然と並ぶ引き戸の木目を、まひるは指先でなぞる。

 その瞬間だった。

(――あっ、あたたかい)

 木の表面に触れただけなのに、指先に伝わるぬくもりに、まひるの胸が締めつけられた。

「――……いま、少しだけ、〝声〟が聞こえた」

 その言葉は、胸の奥から自然にこぼれ落ちた。

 音ではなかった。

 けれど確かに、何かがそこに〝いた〟という感覚が、まひるの感覚の中に残った。

 祖母が語ったあの言葉――『心で聞いてみて。きっと、聞こえてくるから』

 あれは、決して子ども向けの優しい迷信なんかじゃなかった。

 この家の空気の中に、祖母の暮らしの中に、確かに〝息づいているもの〟がある。

 そう感じられたことが、まひるの心に小さな光を灯した。

 その部屋は、ほかのどの空間よりも静かだった。

 家の奥、板の間から一段下がった土間のような作業間。

 光は障子越しにほんのりと落ち、空気はどこか澄んでいる。

 祖母の澄江が生前、最も長く過ごしていた場所だった。

 低い木の机の上には、使い込まれた拭き布と、角のすり減った木箱が置かれている。

 漆の刷毛や、細かな道具が丁寧に収められ、ひとつひとつに〝手の記憶〟が残っていた。

 棚の一角には、〝修繕待ち〟と書かれた札がかかった器や文箱、布製の包みなどが並び、それぞれがどこか所在なげに、しかし穏やかに〝自分の番〟を待っているようだった。

 壁には古びたノートが掛けられていた。

 墨で《預かり帳》と記されたその表紙は、日に焼けて少し茶色みを帯びている。

 まひるは、ゆっくりとその部屋に入った。

 机の前の椅子に腰を下ろし、ひと息吐く。

 目を閉じると、畳に吸われるような沈黙が、耳の奥まで染み渡ってきた。

 静かだった。

 けれど――静けさの奥に、何かがかすかに揺れていた。

(ここが、おばあちゃんの《日向庵》。〝ものたちの声を聴き、手当てする場所〟心が欠けた道具を、もう一度、持ち主のもとへ還す場所――)

 目を閉じたまま、まひるは耳を澄ませる。

 障子の向こうで風鈴が小さく揺れる音がした。

 棚の器たちが、わずかに息を潜める気配がある。

(聞こえる……まだ微かだけど、……『おかえり』って、言ってくれている)

 まひるは目を開けると、〝預かり帳〟に手を伸ばす。

 指先で表紙をなぞると、ほんのりと懐かしい感触が返ってきた。

 それは、祖母がよく使っていた和紙の便箋と、よく似ていた。

 帳簿を開くと、そこには整った筆致の文字が並んでいる。

《昭和六十一年三月/佐藤様/子ども箪笥/傷み・金具欠け》

 その右端には、朱色の「返却済」の印が、控えめに押されている。

 数頁あとには、

《平成三年十月/御園様/菓子器一対/欠け補修/返却時泣かれた》

 小さく、しかし達筆な筆文字で、所見や返却時の様子まで添えられていた。

 まるで、物語の続きを読み解くように、ページを繰るごとに見知らぬ誰かの〝想い〟が浮かび上がってくる。

(どれも、丁寧な筆跡。年月と品名、持ち主の名前、そして――〝返却済〟の印。知らない人たちの暮らしが、ここに記録されているんだ)

 誰かが何かを手放すこと、手放せなかったこと、そして……もう一度、大切にしたこと。

 ふと、ひときわ古びた頁の隅に、挟まれていた薄紙が目に留まる。

 そこには、こう書かれていた。

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