◇◇◇◇◇
翌日、会社の応接室。
まひるは、封筒に入れた退職届を上司の女性に差し出していた。
「……真白さん、突然すぎますよ。一体、なにがあったんですか?」
上司は目を細め、まひるが差し出した封筒に視線を落としたまま、言葉を選ぶように訊ねてくる。
「……祖母が亡くなったんです」
少しだけ声が揺れた。けれど、それ以上は崩れなかった。
「それから……もう、限界なんです」
視線を逸らすことなく、まひるは淡々と言い切った。
上司は真昼の顔をじっと見つめたあと、わずかに眉をひそめた。
机の上に置かれた退職届を見つめ、数秒の沈黙を置いてから、言葉を続ける。
「せめて今月いっぱいは、残ってもらえませんか? 今、オペレータースタッフの離職が続いていて……」
(……はい、わかっています)
まひるは心の中で答えた。
迷惑をかけていることも、突然の申し出が非常識なことも。
いくら他のオペレータースタッフと極力関わらないようにしているとはいえ、退職が多いことに気づかないわけがない。でもこれは今に始まったことではない。ずっとそうなのだ。
皆が顧客の暴言に心を折られて、仕事を辞めていく。
その事実は分かっているけど――
(このままここにいたらわたしの心も完全に壊れてしまう)
そう直感的に理解していた。
「すみません。……お世話になりました」
まひるは丁寧に頭を下げる。
その瞬間だけ、まひるの影が応接室の床に長く伸びた。
言葉の余韻と、退室した上司の足音が遠ざかっていく。
それでも胸の奥で、かすかに残った声があった。
(――あそこに帰らなきゃ……)
まひるの頭の中には、その言葉がだけが幾度となく繰り返し響いていた。
◇◇◇◇◇
夜のバスターミナルは、都会の雑踏とは異なる静けさがある。
ネオンが遠くに霞む空気のなかで、自販機のライトがぼんやりと白く灯っている。
まひるは、小さなキャリーケースを引いて、出発便の番号が点滅する掲示板を仰ぎ見た。
整然と列を成す人々の足元には、それぞれの時間が転がっているように感じる。
東京から離れることに、なんのためらいもない。
それを証明するかのようにまひるの足取りは軽くも重くもなく、無感情だった。
寂しいとも、怖いとも感じない。
それよりも――自身の中の感情が、どこかでひとつずつ音を立てて、剥がれていくような感覚だけが残っていた。
夜行バスの車内。
指定された席に腰を下ろし、薄いカーテンをわずかにずらして外を覗き見る。
街の灯が、車窓の外を静かに流れていく。
それはまるで、取り残されていた記憶のように、どこか遠くへ滲んでいく。
バスが緩やかにカーブを描くたび、荷物の軋む音が耳に触れる。
誰かの小さな寝息と、振動に揺れるシートに布の擦れる音。
けれど、まひるの心は別の場所にあった。
何かから遠ざかるための逃避行のように、逃げているだけなのかもしれない。
けれどその一方で、心のどこかで期待していた。
あの家のあの空気が、まだ自分を待っていることを……。
◇◇◇◇◇
夜が白みはじめたころ、バスは山間の駅に滑り込んだ。
花ノ瀬町――まひるが生まれ育った、そしてかつて暮らしていた町。
降り立ったホームには誰の姿もなく、冷たい空気だけが肌を撫でる。
鳥の羽音が、まだ眠りの底にいる町の上を通りすぎていく。
駅舎の屋根に、山の端から朝日がゆっくりと差し込む。
まだ白んだ光は柔らかく、空気の粒をひとつひとつ染めながら、まひるの頬を照らす。
「……全然変わっていないな」
小声呟いたその言葉は、確かな実感を伴っていた。
見慣れた石畳。錆びた案内板。誰が植えたかもわからない木蓮の影。
なにもかもが、かつてのままそこに在った。
そして、その空気に包まれていると呼吸が楽になるような気がした。
坂道を上る足取りは重くなく、ただ淡々としたリズムを刻む。
キャリーの車輪が石畳をこする音が響く。
すれ違う年配の男性が、会釈をして通りすぎる。
次に出会った女性も、同じように軽く頭を下げた。
(やっぱり、ここは時間がゆっくり流れている気がする)
ふと、肩にのしかかっていた何かが、わずかに和らいだような気がした。
視線を上げれば、朝の光が屋根越しにキラキラと燦めいている。
遠くから子どもの笑い声と、鳥のさえずりが重なるように響いてきた。
(――祖母がひとりで生きていた町。わたしが、逃げた町。でも今は――……)
不意に胸の奥がきゅっと締め付けられた。
(ああ、そうか。ここに戻ってきて、わたしは安心しているんだ)
思わぬ実感に、まひるは目を伏せた。
道の先に見えてきた屋根――そこにはあの風鈴がまだ眠っているような気がしてならなかった。
通学途中の中学生が、自転車でゆるやかな坂を下っていく。
タイヤの音が、朝の石畳に心地よく響いた。
まひるはマフラーを整え、吐く息の白さを見つめるようにして足を止める。
(ここって、こんなに寒かったっけ……でも……なんだろう。吐く息が、無性に懐かしい)
そう思ったとき、心の奥に小さなぬくもりがふわりと浮かんだ。
まひるの靴が、コツコツと音を立てるたびに、足元から〝昔の音〟が立ち上がってくる気がした。
並ぶ店のシャッターは、まだすべて閉じられている。
しかしそこに眠っているのは〝終わった時間〟ではなく、〝続いてきた時間〟だった。
かつてよく通った駄菓子屋。
母に手を引かれて髪を切りに行っていた床屋。
昆布の匂いが強く漂っていた乾物屋。
どの店も古びてはいるけれど、そこにある佇まいは昔とほとんど変わっていない。
まひるは立ち止まり、ひとつひとつの店を見つめてから、小さくつぶやく。
「……ほんとうに変わってないんだ」
東京では、景色も匂いも、昨日のものがそのまま残っていることは少ない。
人も、言葉も、風の向きさえ、ひと晩経てばすっかり形を変えていた。
昨日の景色が次の朝には消えている。それが日常だった。
でもここは、時間がちゃんと積もっている。
(澄江おばあちゃんが暮らしていた町。そしてわたしが、生まれ育った町)
そんな実感が、自然と胸の奥から滲み出た。