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第0話 陽だまりの帰り道②

◇◇◇◇◇

 翌日、会社の応接室。

 まひるは、封筒に入れた退職届を上司の女性に差し出していた。

「……真白さん、突然すぎますよ。一体、なにがあったんですか?」

 上司は目を細め、まひるが差し出した封筒に視線を落としたまま、言葉を選ぶように訊ねてくる。

「……祖母が亡くなったんです」

 少しだけ声が揺れた。けれど、それ以上は崩れなかった。

「それから……もう、限界なんです」

 視線を逸らすことなく、まひるは淡々と言い切った。

 上司は真昼の顔をじっと見つめたあと、わずかに眉をひそめた。

 机の上に置かれた退職届を見つめ、数秒の沈黙を置いてから、言葉を続ける。

「せめて今月いっぱいは、残ってもらえませんか? 今、オペレータースタッフの離職が続いていて……」

(……はい、わかっています)

 まひるは心の中で答えた。

 迷惑をかけていることも、突然の申し出が非常識なことも。

 いくら他のオペレータースタッフと極力関わらないようにしているとはいえ、退職が多いことに気づかないわけがない。でもこれは今に始まったことではない。ずっとそうなのだ。

 皆が顧客の暴言に心を折られて、仕事を辞めていく。

 その事実は分かっているけど――

(このままここにいたらわたしの心も完全に壊れてしまう)

 そう直感的に理解していた。

「すみません。……お世話になりました」

 まひるは丁寧に頭を下げる。

 その瞬間だけ、まひるの影が応接室の床に長く伸びた。

 言葉の余韻と、退室した上司の足音が遠ざかっていく。

 それでも胸の奥で、かすかに残った声があった。

(――あそこに帰らなきゃ……)

 まひるの頭の中には、その言葉がだけが幾度となく繰り返し響いていた。

◇◇◇◇◇

 夜のバスターミナルは、都会の雑踏とは異なる静けさがある。

 ネオンが遠くに霞む空気のなかで、自販機のライトがぼんやりと白く灯っている。

 まひるは、小さなキャリーケースを引いて、出発便の番号が点滅する掲示板を仰ぎ見た。

 整然と列を成す人々の足元には、それぞれの時間が転がっているように感じる。

 東京から離れることに、なんのためらいもない。

 それを証明するかのようにまひるの足取りは軽くも重くもなく、無感情だった。

 寂しいとも、怖いとも感じない。

 それよりも――自身の中の感情が、どこかでひとつずつ音を立てて、剥がれていくような感覚だけが残っていた。

 夜行バスの車内。

 指定された席に腰を下ろし、薄いカーテンをわずかにずらして外を覗き見る。

 街の灯が、車窓の外を静かに流れていく。

 それはまるで、取り残されていた記憶のように、どこか遠くへ滲んでいく。

 バスが緩やかにカーブを描くたび、荷物の軋む音が耳に触れる。

 誰かの小さな寝息と、振動に揺れるシートに布の擦れる音。

 けれど、まひるの心は別の場所にあった。

 何かから遠ざかるための逃避行のように、逃げているだけなのかもしれない。

 けれどその一方で、心のどこかで期待していた。

 あの家のあの空気が、まだ自分を待っていることを……。

◇◇◇◇◇

 夜が白みはじめたころ、バスは山間の駅に滑り込んだ。

 花ノ瀬町――まひるが生まれ育った、そしてかつて暮らしていた町。

 降り立ったホームには誰の姿もなく、冷たい空気だけが肌を撫でる。

 鳥の羽音が、まだ眠りの底にいる町の上を通りすぎていく。

 駅舎の屋根に、山の端から朝日がゆっくりと差し込む。

 まだ白んだ光は柔らかく、空気の粒をひとつひとつ染めながら、まひるの頬を照らす。

「……全然変わっていないな」

 小声呟いたその言葉は、確かな実感を伴っていた。

 見慣れた石畳。錆びた案内板。誰が植えたかもわからない木蓮の影。

 なにもかもが、かつてのままそこに在った。

 そして、その空気に包まれていると呼吸が楽になるような気がした。

 坂道を上る足取りは重くなく、ただ淡々としたリズムを刻む。

 キャリーの車輪が石畳をこする音が響く。

 すれ違う年配の男性が、会釈をして通りすぎる。

 次に出会った女性も、同じように軽く頭を下げた。

(やっぱり、ここは時間がゆっくり流れている気がする)

 ふと、肩にのしかかっていた何かが、わずかに和らいだような気がした。

 視線を上げれば、朝の光が屋根越しにキラキラと燦めいている。

 遠くから子どもの笑い声と、鳥のさえずりが重なるように響いてきた。

(――祖母がひとりで生きていた町。わたしが、逃げた町。でも今は――……)

 不意に胸の奥がきゅっと締め付けられた。

(ああ、そうか。ここに戻ってきて、わたしは安心しているんだ)

 思わぬ実感に、まひるは目を伏せた。

 道の先に見えてきた屋根――そこにはあの風鈴がまだ眠っているような気がしてならなかった。

 通学途中の中学生が、自転車でゆるやかな坂を下っていく。

 タイヤの音が、朝の石畳に心地よく響いた。

 まひるはマフラーを整え、吐く息の白さを見つめるようにして足を止める。

(ここって、こんなに寒かったっけ……でも……なんだろう。吐く息が、無性に懐かしい)

 そう思ったとき、心の奥に小さなぬくもりがふわりと浮かんだ。

 まひるの靴が、コツコツと音を立てるたびに、足元から〝昔の音〟が立ち上がってくる気がした。

 並ぶ店のシャッターは、まだすべて閉じられている。

 しかしそこに眠っているのは〝終わった時間〟ではなく、〝続いてきた時間〟だった。

 かつてよく通った駄菓子屋。

 母に手を引かれて髪を切りに行っていた床屋。

 昆布の匂いが強く漂っていた乾物屋。

 どの店も古びてはいるけれど、そこにある佇まいは昔とほとんど変わっていない。

 まひるは立ち止まり、ひとつひとつの店を見つめてから、小さくつぶやく。

「……ほんとうに変わってないんだ」

 東京では、景色も匂いも、昨日のものがそのまま残っていることは少ない。

 人も、言葉も、風の向きさえ、ひと晩経てばすっかり形を変えていた。

 昨日の景色が次の朝には消えている。それが日常だった。

 でもここは、時間がちゃんと積もっている。

(澄江おばあちゃんが暮らしていた町。そしてわたしが、生まれ育った町)

 そんな実感が、自然と胸の奥から滲み出た。

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