目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第0話 陽だまりの帰り道①

 冬の風がビルの隙間を縫って吹き抜けていく。

 東京の空は、この季節になるとやけに澄んでいて、それがかえって冷たさを際立たせているように感じる。

 まひるのコートの裾が、歩道橋の上で風に揺れた。高層ビルのガラス面には、夕焼けの光が鈍く反射し、まるで誰かの感情を拒むように、冷ややかにそこにある。

 足早に行き交う人々の顔は、どれも似たような無表情に見える。皆、スマートフォンに視線を落としながら、誰とも目を合わせることなく歩いていく。

 まひるは、その流れのなかで、ふと立ち止まりそうになる足を無理やり前に運びながら、胸の奥で誰にも聞こえないつぶやきを繰り返していた。

(――……風が吹いても、空が赤く染まっても、気づかないふりをしていた。ここじゃ、誰もそんなことなんて気にしないから)

 その言葉は、呼気のように白くならず、ただまひるの心にだけ、そっと残った。

 東京に来て、どれくらい経ったのだろう。

 背伸びがしたかった。何者かになりたかった。

 でも本当は、ただ、小さな町のことや、煩わしい家族のこと、そして自分自身から――逃げたかっただけなのかもしれない。

 通りを抜け、小さなビルの二階へ。

 まひるは、電話ボックスのような狭い空間に腰を下ろした。

 コールセンター。マニュアルに沿って応答するだけ。個人の名前すら相手には知られない。そんな仕事。

 両耳に装着したヘッドセットから、鋭い声が突き刺さる。

「何度言わせるんだよ、バカにしてんのか?」

「聞こえてんのか、コラ?」

 罵声の波が、静かに、そして確実に心を削っていく。

 まひるは一度、浅く息を吸い、モニターに映る定型文にカーソルを合わせた。

 そこに並ぶのは、〝感情のない言葉〟たち。

「申し訳ございません。お客様のお気持ちは重々承知しております……」

 口は動いているのに、自分の声がどこにも届いていない気がした。

 指は冷たく、心だけがすり減っていく。

(……声って、なんだろう。言葉って、届かないなら、ただの雑音なんじゃないかな……)

 そんなふうに感じてしまう自分がいる。

 その度に言葉は意味を持たなくなっていた。

 気づけば、外の空は赤から群青へと移ろい始めていた。

 けれど、この街では誰も、それを見あげようとはしない。

◇◇◇◇◇

 昼休みの空気は、無機質なビル群の隙間をすり抜けるように流れていた。

 まひるは小さなコンビニのビニール袋を両手で抱えたまま、ビル屋上のベンチに腰を下ろしていた。

 見上げれば、グレーの雲とコンクリートの縁のあいだから、ほんのわずかだけ、空の青がのぞいている。

 でも、その青さえも、どこか偽物のように見えた。

 風が吹く。まひるの髪が頬にかかる。けれど、彼女は動かない。

 目を閉じることもせず、ただ静かに、空を眺めていた。

「昔は……道具の〝声〟が聞こえていたんだけどな……」

 心の奥に、子どものころの記憶がふと浮かぶ。

 引き出しがきしむ音、ポットの蓋がふるえる湯気、箸が茶碗に当たる澄んだ響き。

 すべてが、〝どこかで誰かが「ありがとう」と言っているような気がしていた〟。

(でも、今はなにも聞こえない)

◇◇◇◇◇

 夜。まひるは、仕事帰りの人波のなかを一人で歩いていた。

 アスファルトの上に、ネオンの光がぼんやり滲んでいる。

 片手にはコンビニの袋。もう片方の手はポケットの中に沈んだまま。

 交差点の前で、ふと立ち止まる。信号の電子音が遠くから響くが、どこか別の世界の音のようだった。

「……やっぱり何も聞こえない」

 道具も、人の声も、自分自身の思いさえも。

 どれもが遠く離れて、霧の向こうにあるようだった。

 まるで、自分という存在だけが世界の片隅に取り残されたような感覚。

 部屋に戻っても、温もりはなかった。

 ワンルームの蛍光灯は、冷たい白さで空間を照らしている。

 使い捨ての紙コップに注がれたコンビニのコーヒーが、少しずつ温度を失っていく。

 スマートフォンが震える。通知の音が、やけに響いた。

 画面に浮かぶ、ひとつの件名。

《訃報のお知らせ。真白 澄江様 ご逝去について》

 その文字を見た瞬間、胸の奥で、何かが崩れる音がした。

(あの人が、いなくなってしまった)

 けれど、感じたのはそれだけ。それ以外、何も感じない自分に困惑が広がる。

 悲しみも、驚きも。

 感情が、すでにどこかへと失われていた。

 まひるはスマホを伏せて、静まり返った部屋の中に身を沈めた。

 家具も、カーテンも、ベッドも、まるで音を発することを拒んでいるように無言だった。

「……帰ってみようかな」

 それは、誰に向けたわけでもない、かすかな呟き。

 けれどその声が、まひる自身の耳にも届いたかどうかはわからなかった。

 窓の外で、風が通り過ぎていく。

 かつて、風鈴がそこにはあった。

 今は――〝音がしない〟。

 夜の部屋は、蛍光灯の白さばかりが際立っていた。

 東京に来てから、幾度となく夜を迎えたこのワンルームの空間。

 慣れ親しんだはずなのに、その日はなぜか、壁も天井もよそよそしく感じた。

 テーブルの上に伏せられたスマートフォンが、無言のまま明滅している。

 小さな通知ランプは、まるで心臓の鼓動のように規則的で、どこか不安定だった。

 カーテンが風に揺れ、外の街灯の光がその隙間からチラチラと差し込む。

 誰の気配もない、都市の夜。

(今日はいつもと変わらない、なんでもない日になるはずだった)

 心の中で呟いたその言葉に、まひるは小さく息をついた。

 仕事はいつも通りに詰まっていて、電車は押し合いへし合いで、コンビニのレジ袋の中には、温め直しただけの夕飯。

 味はしなかった。

 それでも、食べるという行為だけは淡々とこなした。

 食事を終えたまひるは、スマートフォンに手を伸ばす。

 件名をもう一度確認し目を細めて、指でスライドして内容を開く。

 メールの文面は、定型的な弔意の言葉と、淡々とした事務的な説明に終始していた。

 それを読見終えても、やはり何も感じなかった。

 けれど、胸に込み上げてくるものは何もなく、涙すらも出ない。

 むしろ――

 〝ようやくか〟

 そんなことを、思った自分に戸惑った。

《故人の遺志により、葬儀は近親者のみにて執り行いました。ご多用中のところ恐縮ではございますが、どうぞご心配なさらぬよう――」

「心配、なんて。わたしは、おばあちゃんに何年も会っていないのに」

 小さく笑ってしまいそうになる。

 画面の最後には、こう記されていた。

《今後の〝日向庵〟の管理については未定です》

 祖母が遺した場所。

 まひるが避けてきたあの家――思い出しただけで、喉の奥が重たくなる。

 窓の向こうで風が鳴る。あのころ家にあった風鈴。記憶の中ではよくその音が聞こえていた。でも今はその音は聞こえない。

 それに気づいた瞬間、まひるはなにかを決心していた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?