冬の風がビルの隙間を縫って吹き抜けていく。
東京の空は、この季節になるとやけに澄んでいて、それがかえって冷たさを際立たせているように感じる。
まひるのコートの裾が、歩道橋の上で風に揺れた。高層ビルのガラス面には、夕焼けの光が鈍く反射し、まるで誰かの感情を拒むように、冷ややかにそこにある。
足早に行き交う人々の顔は、どれも似たような無表情に見える。皆、スマートフォンに視線を落としながら、誰とも目を合わせることなく歩いていく。
まひるは、その流れのなかで、ふと立ち止まりそうになる足を無理やり前に運びながら、胸の奥で誰にも聞こえないつぶやきを繰り返していた。
(――……風が吹いても、空が赤く染まっても、気づかないふりをしていた。ここじゃ、誰もそんなことなんて気にしないから)
その言葉は、呼気のように白くならず、ただまひるの心にだけ、そっと残った。
東京に来て、どれくらい経ったのだろう。
背伸びがしたかった。何者かになりたかった。
でも本当は、ただ、小さな町のことや、煩わしい家族のこと、そして自分自身から――逃げたかっただけなのかもしれない。
通りを抜け、小さなビルの二階へ。
まひるは、電話ボックスのような狭い空間に腰を下ろした。
コールセンター。マニュアルに沿って応答するだけ。個人の名前すら相手には知られない。そんな仕事。
両耳に装着したヘッドセットから、鋭い声が突き刺さる。
「何度言わせるんだよ、バカにしてんのか?」
「聞こえてんのか、コラ?」
罵声の波が、静かに、そして確実に心を削っていく。
まひるは一度、浅く息を吸い、モニターに映る定型文にカーソルを合わせた。
そこに並ぶのは、〝感情のない言葉〟たち。
「申し訳ございません。お客様のお気持ちは重々承知しております……」
口は動いているのに、自分の声がどこにも届いていない気がした。
指は冷たく、心だけがすり減っていく。
(……声って、なんだろう。言葉って、届かないなら、ただの雑音なんじゃないかな……)
そんなふうに感じてしまう自分がいる。
その度に言葉は意味を持たなくなっていた。
気づけば、外の空は赤から群青へと移ろい始めていた。
けれど、この街では誰も、それを見あげようとはしない。
◇◇◇◇◇
昼休みの空気は、無機質なビル群の隙間をすり抜けるように流れていた。
まひるは小さなコンビニのビニール袋を両手で抱えたまま、ビル屋上のベンチに腰を下ろしていた。
見上げれば、グレーの雲とコンクリートの縁のあいだから、ほんのわずかだけ、空の青がのぞいている。
でも、その青さえも、どこか偽物のように見えた。
風が吹く。まひるの髪が頬にかかる。けれど、彼女は動かない。
目を閉じることもせず、ただ静かに、空を眺めていた。
「昔は……道具の〝声〟が聞こえていたんだけどな……」
心の奥に、子どものころの記憶がふと浮かぶ。
引き出しがきしむ音、ポットの蓋がふるえる湯気、箸が茶碗に当たる澄んだ響き。
すべてが、〝どこかで誰かが「ありがとう」と言っているような気がしていた〟。
(でも、今はなにも聞こえない)
◇◇◇◇◇
夜。まひるは、仕事帰りの人波のなかを一人で歩いていた。
アスファルトの上に、ネオンの光がぼんやり滲んでいる。
片手にはコンビニの袋。もう片方の手はポケットの中に沈んだまま。
交差点の前で、ふと立ち止まる。信号の電子音が遠くから響くが、どこか別の世界の音のようだった。
「……やっぱり何も聞こえない」
道具も、人の声も、自分自身の思いさえも。
どれもが遠く離れて、霧の向こうにあるようだった。
まるで、自分という存在だけが世界の片隅に取り残されたような感覚。
部屋に戻っても、温もりはなかった。
ワンルームの蛍光灯は、冷たい白さで空間を照らしている。
使い捨ての紙コップに注がれたコンビニのコーヒーが、少しずつ温度を失っていく。
スマートフォンが震える。通知の音が、やけに響いた。
画面に浮かぶ、ひとつの件名。
《訃報のお知らせ。真白 澄江様 ご逝去について》
その文字を見た瞬間、胸の奥で、何かが崩れる音がした。
(あの人が、いなくなってしまった)
けれど、感じたのはそれだけ。それ以外、何も感じない自分に困惑が広がる。
悲しみも、驚きも。
感情が、すでにどこかへと失われていた。
まひるはスマホを伏せて、静まり返った部屋の中に身を沈めた。
家具も、カーテンも、ベッドも、まるで音を発することを拒んでいるように無言だった。
「……帰ってみようかな」
それは、誰に向けたわけでもない、かすかな呟き。
けれどその声が、まひる自身の耳にも届いたかどうかはわからなかった。
窓の外で、風が通り過ぎていく。
かつて、風鈴がそこにはあった。
今は――〝音がしない〟。
夜の部屋は、蛍光灯の白さばかりが際立っていた。
東京に来てから、幾度となく夜を迎えたこのワンルームの空間。
慣れ親しんだはずなのに、その日はなぜか、壁も天井もよそよそしく感じた。
テーブルの上に伏せられたスマートフォンが、無言のまま明滅している。
小さな通知ランプは、まるで心臓の鼓動のように規則的で、どこか不安定だった。
カーテンが風に揺れ、外の街灯の光がその隙間からチラチラと差し込む。
誰の気配もない、都市の夜。
(今日はいつもと変わらない、なんでもない日になるはずだった)
心の中で呟いたその言葉に、まひるは小さく息をついた。
仕事はいつも通りに詰まっていて、電車は押し合いへし合いで、コンビニのレジ袋の中には、温め直しただけの夕飯。
味はしなかった。
それでも、食べるという行為だけは淡々とこなした。
食事を終えたまひるは、スマートフォンに手を伸ばす。
件名をもう一度確認し目を細めて、指でスライドして内容を開く。
メールの文面は、定型的な弔意の言葉と、淡々とした事務的な説明に終始していた。
それを読見終えても、やはり何も感じなかった。
けれど、胸に込み上げてくるものは何もなく、涙すらも出ない。
むしろ――
〝ようやくか〟
そんなことを、思った自分に戸惑った。
《故人の遺志により、葬儀は近親者のみにて執り行いました。ご多用中のところ恐縮ではございますが、どうぞご心配なさらぬよう――」
「心配、なんて。わたしは、おばあちゃんに何年も会っていないのに」
小さく笑ってしまいそうになる。
画面の最後には、こう記されていた。
《今後の〝日向庵〟の管理については未定です》
祖母が遺した場所。
まひるが避けてきたあの家――思い出しただけで、喉の奥が重たくなる。
窓の向こうで風が鳴る。あのころ家にあった風鈴。記憶の中ではよくその音が聞こえていた。でも今はその音は聞こえない。
それに気づいた瞬間、まひるはなにかを決心していた。