夜の森は、息を呑むような静けさに包まれていた。
木立の合間から覗く月が、白く冷たい光で草葉の一枚一枚を照らし出し、どこか幻想的な、異世界めいた趣を漂わせている。梢が風に揺れ、葉が擦れるたびに、まるで誰かが秘密をささやいているかのような音が、耳に届く。
秋月悠真は、そのささやきを聞きながら、黙々と薬草を摘んでいた。
腰を落とし、慣れた手つきで茂みに手を差し入れる。視界の中で、薬草の葉が薄く光り、その輪郭を鮮やかに浮かび上がらせる。茎の硬さ、葉の丸み、そして彼にしか感じ取れない独特の甘い香り――それだけが、彼の頼る唯一の目印だった。
根元を掴み、そっと引き抜くと、しっとりとした土の感触が爪の間に染み込む。摘み取られた葉の束は、カゴの中で青い、生命力に満ちた香りを立ちのぼらせた。
「よし……」
カゴの中は、瞬く間に薬草でいっぱいになる。
この薬草を、戦闘職たちは喉から手が出るほど欲しがっている。夜が明けて村の広場に戻れば、露天に人が押し寄せ、銀貨がうずたかく積み上がっていくだろう。
けれど――悠真の胸に去来するのは、単純な誇らしさだけではなかった。
このところ、広場に並ぶ露店の数は確実に増えていた。
彼を真似て「薬草採集人」に転職した後発者たちだ。彼らはまだ通常の薬草しか並べられず、上薬草や毒消し草を単独で扱える悠真には遠く及ばない。
だが、それでも彼らは確実に数を増やし、広場の薬草の価格は、日に日に少しずつ下がっているのが現状だった。
悠真は、自らの優位がいつか侵されるという、微かな焦燥感を抱きながら、森のさらに奥、深い闇に視線を向けた。
――まだ、俺にしかできないことが、この世界のどこかにあるはずだ。
その確信に導かれるように、誰も足を踏み入れない深い闇の中へ、彼は一歩、また一歩と足を進めた。
◇ ◇ ◇
森の奥は、明らかに空気が違っていた。
木々がこれまでの比ではないほど密集し、夜露で重たく湿った空気が肌にまとわりつく。土の匂いはより一層濃くなり、足元の落ち葉が薄い靄に覆われている。まるで、この先に未知の領域が広がっていることを示唆しているようだった。
悠真は、ずっしりとしたカゴを抱え直し、茂みをかき分ける。
視界の中で、赤みを帯びた上薬草の輪郭が鮮やかに浮かび上がる。葉脈が微かに脈打ち、甘さの中にほのかな苦みを孕んだ香りが、あたりに漂う。
上薬草――他の誰もまだ扱えない、彼にとって揺るぎない矜持を与えてくれる貴重な薬草。
「これがある限り……俺の露店は、絶対に潰れない」
茎を掴み、そっと抜き取ると、葉が生命を宿したようにかさりと音を立てる。
さらに奥へ、慎重に進むと、灰緑色の葉を持つ毒消し草が、月光に照らされて静かに、しかし確かな存在感をもって揺れていた。それも丁寧に摘み取り、カゴに加える。
カゴの中は、通常の薬草、そして上薬草、毒消し草で満たされていく。
その重みが、いつもよりはるかにずっしりと、そして確かな手応えとして感じられた。
けれど――不思議と、まだ満足はできなかった。彼の探求心は、さらにその先を求めていた。
◇ ◇ ◇
木々のざわめきが途切れ、やがて、清らかな小川のせせらぎが耳に届き始めた。
月光が水面に反射してきらめき、幻想的な霧が漂うそのほとりに、悠真は腰を下ろした。疲労は感じていない。むしろ、新たな発見への予感が彼を突き動かしていた。
カゴから、大切に摘み取った上薬草と毒消し草をそっと取り出し、目の前に並べる。
その葉をじっと見つめながら、無意識のうちに指が、まるで導かれるように動き出していた。
上薬草の葉先を繊細に摘み、毒消し草の根元と慎重に重ねる。
葉の上で、ほんの少しだけ、しかし絶妙な力加減で揉むと、薄く光る汁がにじみ出し、指先をかすかに、しかし確かに痺れさせる。
その瞬間――視界に、まばゆい青白い文字が、まるで天啓のように浮かび上がった。
《スキル派生条件達成! 新スキル【薬草調合】を習得しました》
「……調合……?」
悠真は、その文字を呆然と見つめたまま、息を呑んだ。
今まで、薬草はただ摘んで売るだけの、単純なものだと思っていた。それが彼の常識だった。
だが、それはまだこの世界の入り口に過ぎなかったのだ。
異なる薬草同士を組み合わせることで、より強力で、これまで存在しなかった、計り知れない価値のある何かを生み出す――それが、この先に広がる、彼にしか見えない道。
長い間、冷めかけていた悠真の胸の奥が、久しぶりに熱を帯びた。
まだ、他の誰も知らない、未開の世界が、ここには無限に広がっている。
悠真は、そっと上薬草を摘み上げ、月光にかざした。
青白く光る葉先が、まるで彼自身の新たな可能性を祝福するかのように、静かに揺れた。
やがて、彼は満足げに、そして確かな自信を込めて小さく笑った。
「……まだ、俺にしかできないことが、ここには、こんなにも残されている」
森の奥で、夜風が木々の間を駆け抜け、葉を揺らした。
その音が、まるで悠真の喜びを分かち合うかのように、どこか嬉しそうに聞こえたのは、決して気のせいではなかっただろう。
カゴの中で、摘まれたばかりの薬草たちが、静かに、しかし新たな可能性を秘めて葉先を震わせていた。