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第2話 写実という名の神

 木の床の冷たさでユンは意識を取り戻した。

 ロウソクのゆらめく炎が、重厚な本棚とイーゼルを照らしている。

 部屋にはインクの香りと、乾きかけの油絵の匂いが混じっていた。


 ——ここは?


 窓の外を覗けば、石畳を馬車が走り、燕尾服とドレスの人々が行き交う街。

 だがその建築様式はどこか現実とは違い、空には双月が浮かんでいた。

 新聞らしき紙片には「聖歴874年」と記されている。


 「聖歴……? どこの国の……」


 ユンの背中に冷たい汗が流れる。

 どうやら彼女は、写実主義が絶対的な権威を持つ異世界に転生してしまったらしい。


 この世界では、「王立アグノス画学院」が芸術界の頂点に君臨していた。

 学院では「写実こそが美の本質」という理念が、宗教にも似た信仰として語られている。


 人々は写実画の前でひざまずき、祈るように見つめていた。まるでそれが、神のていじ啓示けいじでもあるかのように。


 ユンは、新たな身分と名前も与えられていた。

 名はエミリー・ブランシュ。年齢は17歳。富裕な貿易商の娘である。

 両親はすでに他界していたが、手元には十分な遺産があった。

 「絵の加護を受けた才女」として、後見人の勧めによりアグノス画学院の入学試験を受けることになる。


 学院の下見に向かったユンは、街路の複雑さに迷ってしまい、不安げに地図を見下ろして立ちすくんでいた。

 そのとき、明るい声が背後から飛んできた。


 「やあ、どうしたんだい? 迷子かな?」


 振り返ると、陽に照らされた赤髪が目にまぶしい、爽やかな青年が立っていた。

 整った顔立ちに、柔らかな笑み。だがその口調は、どこか軽薄にも思える。


 「……学園に行きたいの。王立アグノス画学院」


 ユンが答えると、彼は大げさに目を見開いた。


 「君みたいな女の子が? 絵を描くんだ? そりゃ驚いた!」


 あまりにも芝居がかった反応に、ユンは一瞬ムッとした。

 けれど、彼は人懐っこい笑顔で地図を取り上げると、「じゃあ案内してあげるよ」と、気さくに言った。

 会話の端々に軽さはあるが、親切心に嘘はなさそうだった。


 「ありがとう」とユンが礼を言うと、彼は「気をつけてね、芸術は時に人を狂わせるから」と、冗談めかして手を振った。

 その言葉が、どこか胸にひっかかりながらも、ユンは学園の門をくぐる。


 展示室に並ぶ学生たちの作品に、思わず息を呑む。

 圧倒的な技術、緻密な陰影、解剖学に裏付けられた人体表現。

 どの絵も“正しさ”の塊だった。


 ——でも……。


 ユンはつぶやく。


 「写真のような完璧さ。でも、観ていて心が動かない。まるで……死体を美しく描いているみたい」


 ——違う。私はこういうのを描くために筆を握ったんじゃない。


 だがこの世界では、魂を描こうとする者は“逸脱者”とみなされ、学院に入ることすら叶わない。


 その日、学院の門前でひとりの青年と出会う。

 名前はリアン=セドル・ヴァロワ。

 若干18歳にして、学院の特待生として将来を約束された天才写実画家である。


 まるで、転生前の世界のモネの様な風格の画家。


 彼はユンのスケッチブックを覗き込み、冷ややかに言った。


「……これは絵じゃない。“記録”にも、“祈り”にもなっていない」


 その言葉に、ユンは目を細めて言い返す。


 「私は“事実”じゃなく、“真実”を描いてるの」


 リアンは皮肉げに笑う。


 「なら、試験で証明してみせろ。この国は進歩を信じてる。蒸気機関も、透視図法も、“正確さ”こそが真理だ。芸術も同じだろう?“美”は、感情ではなく、理で測れるものだ」

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