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第3話 異端の静物画

 王立画学院、講堂。

 高い天井、整然と並ぶ長机、そして荘厳な静けさ。


「課題は『静物画』。モチーフは共通、配置も指定通り。完成まで4時間——評価基準は“再現性”と“構図の調和”である」


 教官の声が響くと、受験生たちは一斉に筆をとった。


 用意されたモチーフは、銀の燭台、ガラスの水差し、赤いリンゴと白い布。

 すべてが光沢や透明感、質感の表現力を問われる定番中の定番。


 ユンも、鉛筆を握った。だが——


 (こんなもの、描きたくない)


 心の中で呟く。

 写実という正確な“複写”ではなく、そこにある空気、感情、緊張感。それこそが彼女の描きたい“真実”だった。


 時間が過ぎてゆく。

 隣の受験生たちは、まるで機械のように正確な描写を進めている。


ユンは、下描きの途中で手を止めた。


(完璧な再現? それで、誰の心が動くっていうの? こんな空間、私はぶっ壊すために来たんだ)


彼女は筆を握り直すと、あえて布のシワを歪ませ、リンゴの赤を極端に強調し、水差しには**水ではなく“曇った空”**を映した。


そこから、時間の感覚が変わりはじめた。


最初は、試験会場のざわめきや鉛筆のこすれる音が耳に入っていた。だが描き進めるうちに、それらは次第に遠のいていく。

重く沈むような静寂の中、聞こえるのは自分の呼吸、紙の上を滑る筆の音だけ。

心臓の鼓動までもが、どこか別のリズムに変わっていく。


光の反射がまぶたの裏で揺らぎ、リンゴの赤は脈打つように滲み、水差しの曇天は自分の内側と溶け合った。

それはもはや、モチーフを“写す”作業ではなかった。描くというより、“引きずり出す”行為だった。


 それは、“見えるもの”ではなく、“感じたもの”を描く筆——感情の写実だった。


 周囲の目が刺さる。

 中には「落ちるな」と言わんばかりの冷笑を浮かべる者もいた。

 だがユンは、最後まで描ききった。


 気づけば、教官の声が響いていた。


 「時間です。筆を置いてください」


 ユンの絵を前に、監督官の一人が眉をひそめた。

 明らかに規定から外れた構図。素材の再現性よりも、色彩と感情が突出している。


 ——だが、見入ってしまう。


 「これは……何を描いたつもりだ?」


 問いかけにユンは、静かに答えた。


 「“心を揺らした静物”です。あなたたちの望む“写実”とは違うかもしれない。でも——これが、私の“見る”ということです」


 試験終了から数日後。

 学院では教授陣による審査が行われていた。


 「また奇をてらった作品か?」

 「いや……奇をてらっただけじゃない。ただ写しているものでもない。まるで、静物に秘められた物語を読み取り、そこに自分の声で答えているようだ」



 教授たちの間で意見が割れた。

 だが、ひとりだけ、確かにユンの作品を“価値あるもの”と見抜いた人物がいた。


——それは、王立画学院の副学長にして、かつて「灰の写実主義」で一時代を築いた伝説の画家、カリス・ヴァン・ルーメンだった。


 彼はただ一言、こう言った。


 「我々の牢獄に、ひびが入ったな」


 入学試験を終えた夕刻、ユンは学院の門へと歩いていた。重たい緊張から解き放たれた反動で、足取りは少しふらついていた。


 ——門の前に、見覚えのある赤い髪が揺れていた。


 「やあ、また会ったね。」


 陽の傾いた石畳の上、あの青年が立っていた。爽やかな笑みは相変わらず、だがその目は、どこか試すような光を宿している。


 「どうだった、入試は? 君のことだから、ただじゃ済まなかったんじゃないかと思ってたよ。」


 ユンが黙っていると、彼は肩をすくめた。


 「まあ、いいや。自己紹介がまだだったね。僕はナイル・ヴァルセリオ。街の画商さ。」


 その口ぶりは軽いが、手に抱えた革の資料鞄からは、鑑識眼と経験を感じさせた。


 「君みたいな目をする子、久しぶりに見た。もし学院に入れたら——いつか作品、見せてよ。商談も兼ねて、ね?」


 そう言って、ナイルは片目をつぶってみせた。ユンの胸に、ささやかな風が吹いた。


  (あの目は……私の絵を“見ている”目だ)


 まだ何も確かじゃない。けれど、ほんのわずか、胸が軽くなった気がした。



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