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第4話 神童と異端

  王立画学院の掲示板に、合格者の名前が張り出された日。

 ざわめく生徒たちの中で、誰もがある名前に目を留める。


「エミリー・ブランシュ」——あの“異端の静物画”を描いた少女の名前だった。


 「嘘だろ」「あれが通るのか?」

 「写実を馬鹿にしてるのか、あいつ」


 美の絶対基準を揺るがす選考結果に、学院は静かな騒然を見せていた。


 ユンが初登校した日、アトリエの廊下で彼が待っていた。

 整った顔立ちに、金色の巻き髪。まるでルーブルから抜け出してきたような風格の少年。


 「やっぱり、君だったんだな。あの絵の作者」


 リアン=セドル・ヴァロワ。

 若干18歳にして、学院内の公募展で三冠を取った神童。


 だがそのまなざしは、嘲笑でも嫌悪でもなかった。

 ただ、冷静な「好奇」と「評価」の光が宿っていた。


 「……あれは、絵というより“告白”に近い。自分の内側を、無防備に晒したような」


 ユンは言い返す。


 「じゃあ、あなたの絵はなに? 他人の目ばかり気にした“模写”?」


 その瞬間、廊下の空気が張り詰める。


窓の外の光が、まるで息を潜めたようだった。


 ヴァロワは肩をすくめて、静かに言った。


 「模写こそが、真理への道だ。先人たちの到達した完璧な技術を吸収し、寸分違わず再現すること。その果てに、ようやく画家は“本物”の領域に足を踏み入れる。いいだろう。だったら、君に見せてやる。“本物の模写”が、どれだけ強いかを」


 授業が始まった。


 人体デッサン、陰影の付け方、透視図法、古典模写……すべてが「再現」のための技術だった。

 ユンは、持ち前の観察力で描くことはできたが、魂を込めると評価されない。


 「筆に“余計な感情”が混じっている」

 「対象を“崇拝”していない」

 「再現とは、理性の礼儀だ」

 「構図を疑うとは、神を疑うのと同じことだ」


 講師の言葉に、生徒たちは何の疑いもなくうなずいた。

 この学院では、絵とは“従属”であり、感情とは“罪”だった。


 そして、 教官の評価は辛辣だった。


 ——まるで、ここは宗教。


「私は何を信じて、何を描いているんだろう」


 写実という神を信仰しない者は、異端として扱われる。


 ユンは思った。


「写実は、確かにすごい。

緻密で、正確で、どれほど見ていても飽きないほど、美しい。

写真のような再現力。絵の中の空気や体温さえ感じられるほどの精緻な技巧。

けれど、だからこそ、怖い。

どれほど完璧に描かれていても、その中に“描いた人”がいないとしたら?

「現実のように見える」ことが、なぜ「真実」だと言えるの?


たしかに、写実の名手たちは、風景を、人物を、静物を、驚くほど緻密に描き出す。光も、影も、質感も、まるで魔法のように再現する。でも……それは、ただ“正解”をなぞっているようにも見える。


そこに揺れはない。迷いも、衝動もない。

絵筆がキャンバスを走るとき、ほんとうに画家の心は動いていたのだろうか?


絵から立ち上るのは、“描かれた対象”の気配ばかりで、“描いた人間”の存在が感じられない。


ただ、技術だけが語ってくる。まるで、完璧な模写をする機械のように。


私は、そんな絵に、寂しさを覚えるの。


ただ反抗しているんじゃない。

ただ壊したいんじゃない。

その美しさの、奥にあるものを問い直したいだけ。

描かれていない“何か”を、描きたいだけ。」


 そして、ユンは諦めなかった。


 ある日、学院内の小規模展覧会「春季選抜展」が発表された。

 テーマは「祈り」。


 ヴァロワは、古代彫刻のような完璧な国王を描いた。

 静謐で崇高、正確無比で文句のつけようがない。


 一方、ユンの絵は異彩を放っていた。


 ──主題は「祈り」ではあるが、

 描かれていたのは、泣きながら濡れた地面に手を伸ばす名もなき少女。

 顔は見えず、背景は黒いにじみだけ。だが、見る者の胸に何かを突き刺す“叫び”があった。


 観客の反応は割れた。


 「これは祈りじゃない。写実の基本を怠り、単なる感情の暴露に過ぎない」


 「こんなもの……、まるで子供の悪戯書きだ。芸術としての体をなしていない」

 貴族風の青年が呟いた。


 「祈りに見えないなら、それはあなたに“祈り”がないから」

 ふいに横から、誰かがそう言った。言い返せず、青年は眉をひそめて立ち去った。


 そして、ある中年女性は、ハンカチで目元を拭いながら立ち去った。誰にも気づかれないように。


 その中で、ヴァロワは絵の前に立ち、つぶやいた。


ヴァロワは、ユンの絵の前に立ち、眉間にわずかな皺を寄せた。


 「技術的には粗がある。学院の教義に照らせば、落第点の作品だろう。

だが、彼の完璧な頭脳では測りきれない何かが、その絵にはあった。

名もなき少女の、歪んだ表情は見えない。

しかし、確かに胸に響く「感情」がある。それが、観る者の奥底に眠る「記憶」を揺さぶるような、生々しい「命」を持っていた。

僕の、精緻な計算と磨き抜かれた技術で描かれた「祈り」にはない、人間らしい「熱」が。」


 「……負けたかもしれない」


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