王立画学院の掲示板に、合格者の名前が張り出された日。
ざわめく生徒たちの中で、誰もがある名前に目を留める。
「エミリー・ブランシュ」——あの“異端の静物画”を描いた少女の名前だった。
「嘘だろ」「あれが通るのか?」
「写実を馬鹿にしてるのか、あいつ」
美の絶対基準を揺るがす選考結果に、学院は静かな騒然を見せていた。
ユンが初登校した日、アトリエの廊下で彼が待っていた。
整った顔立ちに、金色の巻き髪。まるでルーブルから抜け出してきたような風格の少年。
「やっぱり、君だったんだな。あの絵の作者」
リアン=セドル・ヴァロワ。
若干18歳にして、学院内の公募展で三冠を取った神童。
だがそのまなざしは、嘲笑でも嫌悪でもなかった。
ただ、冷静な「好奇」と「評価」の光が宿っていた。
「……あれは、絵というより“告白”に近い。自分の内側を、無防備に晒したような」
ユンは言い返す。
「じゃあ、あなたの絵はなに? 他人の目ばかり気にした“模写”?」
その瞬間、廊下の空気が張り詰める。
窓の外の光が、まるで息を潜めたようだった。
ヴァロワは肩をすくめて、静かに言った。
「模写こそが、真理への道だ。先人たちの到達した完璧な技術を吸収し、寸分違わず再現すること。その果てに、ようやく画家は“本物”の領域に足を踏み入れる。いいだろう。だったら、君に見せてやる。“本物の模写”が、どれだけ強いかを」
授業が始まった。
人体デッサン、陰影の付け方、透視図法、古典模写……すべてが「再現」のための技術だった。
ユンは、持ち前の観察力で描くことはできたが、魂を込めると評価されない。
「筆に“余計な感情”が混じっている」
「対象を“崇拝”していない」
「再現とは、理性の礼儀だ」
「構図を疑うとは、神を疑うのと同じことだ」
講師の言葉に、生徒たちは何の疑いもなくうなずいた。
この学院では、絵とは“従属”であり、感情とは“罪”だった。
そして、 教官の評価は辛辣だった。
——まるで、ここは宗教。
「私は何を信じて、何を描いているんだろう」
写実という神を信仰しない者は、異端として扱われる。
ユンは思った。
「写実は、確かにすごい。
緻密で、正確で、どれほど見ていても飽きないほど、美しい。
写真のような再現力。絵の中の空気や体温さえ感じられるほどの精緻な技巧。
けれど、だからこそ、怖い。
どれほど完璧に描かれていても、その中に“描いた人”がいないとしたら?
「現実のように見える」ことが、なぜ「真実」だと言えるの?
たしかに、写実の名手たちは、風景を、人物を、静物を、驚くほど緻密に描き出す。光も、影も、質感も、まるで魔法のように再現する。でも……それは、ただ“正解”をなぞっているようにも見える。
そこに揺れはない。迷いも、衝動もない。
絵筆がキャンバスを走るとき、ほんとうに画家の心は動いていたのだろうか?
絵から立ち上るのは、“描かれた対象”の気配ばかりで、“描いた人間”の存在が感じられない。
ただ、技術だけが語ってくる。まるで、完璧な模写をする機械のように。
私は、そんな絵に、寂しさを覚えるの。
ただ反抗しているんじゃない。
ただ壊したいんじゃない。
その美しさの、奥にあるものを問い直したいだけ。
描かれていない“何か”を、描きたいだけ。」
そして、ユンは諦めなかった。
ある日、学院内の小規模展覧会「春季選抜展」が発表された。
テーマは「祈り」。
ヴァロワは、古代彫刻のような完璧な国王を描いた。
静謐で崇高、正確無比で文句のつけようがない。
一方、ユンの絵は異彩を放っていた。
──主題は「祈り」ではあるが、
描かれていたのは、泣きながら濡れた地面に手を伸ばす名もなき少女。
顔は見えず、背景は黒いにじみだけ。だが、見る者の胸に何かを突き刺す“叫び”があった。
観客の反応は割れた。
「これは祈りじゃない。写実の基本を怠り、単なる感情の暴露に過ぎない」
「こんなもの……、まるで子供の悪戯書きだ。芸術としての体をなしていない」
貴族風の青年が呟いた。
「祈りに見えないなら、それはあなたに“祈り”がないから」
ふいに横から、誰かがそう言った。言い返せず、青年は眉をひそめて立ち去った。
そして、ある中年女性は、ハンカチで目元を拭いながら立ち去った。誰にも気づかれないように。
その中で、ヴァロワは絵の前に立ち、つぶやいた。
ヴァロワは、ユンの絵の前に立ち、眉間にわずかな皺を寄せた。
「技術的には粗がある。学院の教義に照らせば、落第点の作品だろう。
だが、彼の完璧な頭脳では測りきれない何かが、その絵にはあった。
名もなき少女の、歪んだ表情は見えない。
しかし、確かに胸に響く「感情」がある。それが、観る者の奥底に眠る「記憶」を揺さぶるような、生々しい「命」を持っていた。
僕の、精緻な計算と磨き抜かれた技術で描かれた「祈り」にはない、人間らしい「熱」が。」
「……負けたかもしれない」