建国記念美術展から一週間後。
ユンとルヴァロワの
……だが、誰かがそれをスケッチして新聞に載せた。
貧しい群衆、慈愛に満ちた女王、祈りの光。
記事にはこう記されていた。
「美術展で最も“神聖”だったのは、国王陛下という神、”国家の顔”を描かなかったこの一枚であり、
そこにあったのは、紛れもない“この国の魂”である」
「この国の信仰は長らく“像”によって支えられてきた。だが彼らは、”慈愛の像”と“生きる者たち”を描いた」
「王冠の輝きよりも、貧者の祈りが尊いとした時——それは、美術の“革命”である」
記事は、上流のサロンよりも、貧しい画学生や無名の詩人たちの間で静かに燃え広がった
裏通りの薄暗いカフェでは、学生たちが熱気を帯びた顔でその記事を囲み、興奮した声で議論を交わしていた。
市場の露店では、疲れ切った職人たちが、休憩中にこっそり記事を読み回し、普段は無表情な顔に微かな希望の色を浮かべていた。
紙が擦り切れ、インクが滲むほどに読み込まれたその一枚は、まるで口伝えの福音のように、
社会の底辺から静かに、だが確実に、人々の心を揺さぶり始めていた。
学院の講師室で、ユンとヴァロワは学院長から呼び出された。
「君たちの作品は、感情的には理解できる。だが、公的展覧会は“思想の場”ではない。これは“芸術の政治利用”に近い」
ヴァロワは皮肉っぽく笑った。
「逆でしょう。“政治”が芸術を利用してるだけだ。僕らは“人間”を描いただけだ」
「思想のない美なんて、美じゃない。あれはただの飾りだ」
ユンも口を開く。
「あなたが描かせたいのは“理想”じゃない。”
……私は、見えないふりをして絵を描くことに、もう耐えられませんし、目に見えるものだけを描くことが、“忠誠”なら、私はもう絵なんか描かない」
その言葉に、学院長の眉がピクリと動いた。
「……その言葉、後悔しないように」
その夜、ユンのもとに差出人不明の手紙が届く。
「知られざる通り」にて、あなたの絵を見たい者たちが待っています。
あなたの絵に、火を灯された者たちがいます。
彼らは、語る言葉を持たず、ただ筆を握って集まっています。
“知られざる通り”の古い印刷所にて——
あなたの“灯”を待ち、美を信じる者たちの、小さな火だまりより。
ユンはヴァロワとともに指定の住所へ向かう。
それは、街の裏通りにある古い印刷所だった。
そこにいたのは……
「夜の壁」に詩を刻む街の詩人、民衆の怒りと愛を路地裏に詠い続ける、筆よりも声で戦う言葉の革命家。
女というだけで公的制作から排除され続けてきた、小柄な彫刻家の女性。
下町の小劇場で、社会風刺劇の舞台装置を手がける気鋭の美術家。
処刑された革命指導者の弟にして、今は街角でビラを撒く沈黙の青年は、
兄の最期を見届けたその瞳に、未完の炎が宿る。
彼らは、サロンにも学院にも居場所を持たぬ“創造の亡命者”たちだった。
アトリエで、ユンは初めて「言葉ではない共感」に包まれた。
「お前の絵を見て、俺は筆を折った。だが、もう一度持ちたいと思えた」
「私の彫刻が“真似”ではなくなるのなら、それはお前のせいだ」
彼らはユンに言った。
誰にも届かないと思っていた絵が、誰かの人生を揺らしていた。
今、自分の絵が、他人の手を動かしている。
私は……もう、“ただの孤独な異端者”じゃない
「誰も理解しなくても、自分が表現しないと“生きた”って言えない」
転生前の、あの誰にも届かない衝動を思い出していた。
しかし、ここは違う。
彼女の魂を削って描いた作品が、確かに誰かの心に届き、そして、ここにいる者たちの「生」を再び灯そうとしている。孤独な戦いではなかったのだ。
こみ上げてくる熱いものを必死に飲み込み、ユンは、ようやくたどり着いた心の居場所。
言葉は何も出てこなかった。
その瞬間、ただ、胸の奥に灯った熱だけが、彼女の中で確かに燃えていた。
ユンはただ、静かに涙をこらえた
その傍らで、ヴァロワは腕を組み、静かにその光景を見つめていた。
彼の完璧な世界には存在しなかった「不完全な美」が、ここに集う人々の心に確かな灯火をともしている。
それは、彼がこれまで追い求めてきた「正しさ」とは異なる、人間的な「温かさ」に満ちた場所だった。
理論、技巧、構図、完璧さ。ずっとそこにしがみついて、自分の価値を預けていた。
でも今、粗削りな線にこそ、真の生命が宿ることを知ってしまった——それは、彼にとって痛みであり、救いでもあった。
彼の心の奥底でも、微かな何かが解き放たれるのを感じていた。
ずっと縛られていた、頑なな信念や理想から、ようやく解放され、自由になれたのだ。
「次は、お前たちがテーマを決めろ。“誰のための美”かを問うんだ」
ユンは震える指で、白紙に言葉を記した。
次のテーマ:「美は、誰の手にある?」