その日、ユンとヴァロワは、王立画学院の講堂の奥、冷たい石の床に立っていた。目の前には、学院長、審査官、宗教代表、そして王国文化省の役人たち——いずれも芸術に権威と秩序を求める者たちばかりだった。
「君たちの作品が引き起こした反響は、もはや止められない」
学院長の声は低く、氷のようだった。だがその裏には、恐れと焦りが滲んでいた。
「このままでは、ただの芸術革命では済まされない。君たちが煽ったのは、民衆の情熱であり、信仰の動揺であり、国家の根幹だ」
「国王庁はすでに動いている。王室通信局は、君たちの絵を“象徴破壊の意図あり”と報告した。思想局からの監視対象にもなった」
講堂に、冷たい緊張が走った。
「信仰と芸術は、ともに秩序を守るもの。だが君たちは、どちらにも従わなかった」
壇上の机には、新聞に掲載された《無名の光》のスケッチが置かれていた。ユンはその紙面から目を逸らさなかった。
この絵が、どれだけの夜と絶望を越えて生まれたものか。——誰にも分かるはずがなかった。
「君たちは、“美”を冒涜した」
文化省の役人がそう告げた。
「ただ“人間”を描いただけだ」
ヴァロワが口を開いた。
彼の声には、かつて厳格な写実の規範を絶対としていた自身の過去への皮肉と、今の美に対する概念への確信が入り混じっていた。
「飢えた者、祈る者、怒る者、愛する者……彼らの魂が、美だった」
「だが今の“美”とは、調和と秩序を意味する。国家に忠誠を、神に敬虔を捧げる象徴だ」
誰かが言った。
「その秩序を崩した絵画は、“芸術”ではない。“扇動”だ」
また、教員の一人は、《無名の光》の女王に異を唱えた。
「神である国王陛下ではなく、なぜ女を描いた?それでは、陛下の“存在を否定した”に等しいではないか」
ヴァロワは一歩前に出た。
「つまりあなた方にとって、“国王陛下は常に描かれていなければならない”と?」
ざわめきが広がった。
ユンはふと気づく。自分たちはいま、“問う者”として立っているのだ。ただ描いたのではない。
時代に、信仰に、権力に、「なぜ」を突きつけたのだ。
「お前たちが描いたのは、“反逆者の絵”だ」
学院長が言った。
「この場限りで、展示の権利を剥奪する。画壇からの除名も、追って通知する。そして、その絵が残した痕跡も、やがてこの美術史から消え去るだろう。」
まるで死刑宣告のようだった。
だがユンは立ち尽くすばかりで、何も言わなかった。
今、言葉で争えば、彼らと同じ土俵になる。
ユンは沈黙で答えた——この絵がすべてだ、と。
議場を出ると、廊下にいた若い学生たちが視線を逸らした。
もう誰も、彼らに声をかけない。誰も味方ではない——その現実が、鋭く突き刺さる。
ヴァロワが小さく呟く。
「孤独っていうのは、こんなに静かなものなんだな」
それでもユンは前を向いた。
自分が描いたものは、誰かの心を動かした。揺らした。
ならば——たとえすべてを失っても、その筆は捨てない。
その後、ユンとヴァロワが王立画学院を追放されたという噂は、瞬く間に美術界を駆け巡った。「異端」と「神童」。かつては賛美と羨望の的だった二人の名は、今や秩序を乱す象徴として語られるようになった。
遠く離れた町で、その報せを受け取ったナイルもまた、深く肩を落とした。何度も文章を書きかけ、送りかけては、破り捨てた。
……自分に何ができただろう?
講堂に立つ資格も、語る言葉も、彼にはなかった。
ナイルは、ずっと「秩序ある美」に安堵していた。
でもその安堵は、ただ安全地帯で目を伏せていたに過ぎなかった。
彼の手元に残されたのは、かつて密かに撮った一枚の写真——《無名の光》の、完成前の姿だった。
モノクロームのその中に、祈りを捧げる人々と、光を見つめる群衆の影が焼き付いている。
「……これは、消されるべき絵なんかじゃない」
ナイルは静かに呟いた。
たとえ彼らが追われようとも、この絵の中に宿るものは、本物の“美”だと、心の奥底では確信していた。
——そして、彼自身もまた、変わらなければならない。
ユンとヴァロワが問いかけた「なぜ」に、次は自分が答えなければならないのだ。
次回予告
美の革命は止まらない。だが、その代償は、想像を超えるものだった。
第十話
「迫る沈黙、封じられた筆」
ユンは描き続けられるのか?
それとも、現実が彼女を“抹消”しようとするのか?