ユンは、自宅のアトリエにこもっていた。
《無名の光》のスケッチは、壁に無造作に貼られている。
見るたびに胸が締めつけられる。
それは、彼女自身の断罪文のように見えた。
描ききったはずの絵が、今は自分を見つめ返してくる。責めるでもなく、ただ沈黙して。
筆も、沈黙していて、何も語らなかった。
ヴァロワは何度も訪れたが、ユンは絵筆を握ろうとしなかった。
「まだ……描けないの」
その声はかすれていて、どこか他人事のようだった。
追放処分が正式に下ったのは、それから三日後のことだった。
王立画学院、そして王国芸術評議会からの通達——
“エミリー・ブランシュ(ユン)、リアン=セドル・ヴァロワの両名を、美術界より永久除名する。
以後、作品の展示・発表・流通を禁ずる。”
その通達の、白い紙に書かれた冷たい文字が、まるで彼女の存在そのものを塗り潰すかのように重くのしかかる。
画材店は彼女達への販売を拒否し、付き合いのあった画商は一様に顔を背けた。
取引銀行からは融資の打ち切りが
それは、画家にとって、「死刑宣告」に等しいものだった。
ユンは思った。
——私は本当に、描くことしかできない人間だったのか?
もしそうなら、もう生きる場所はないのかもしれない、この世界に、私の居場所なんてない。
その夜、アトリエの窓が叩かれた。
窓を開けると、そこには小さな影が立っていた。かつてユンと同じクラスメイトの少女のひとり——ミレイユだった。
「エミリー……この絵、ほんとうに“悪い絵”なの?」
少女の手には、新聞に載った《無名の光》の切り抜きが握られていた。
握りしめられた紙は、折れて皺だらけだった。だがその目には、真っすぐな問いが宿っていた。
「この人たちの顔、私……好きだよ。泣いてるのに、あったかい。
見てると、見てると・・・・・・、なんだか、描きたくなるの。」
ユンは何も言えなかった。だが、胸の奥に、久しく感じなかった震えが芽生えた。
その夜、ユンはようやくイーゼルの前に立った。
震える手で、古びた筆を握りしめる。キャンバスは真っ白なまま、じっと彼女を待っていた。
あの日からずっと沈黙していた筆が、手の中で少しだけ重く感じられた。
恐れるように、祈るように、ユンは筆先を近づけた。
描けるかどうかは分からない。でも、それでも、描こう。
誰の許可もいらない。誰の評価もいらない。
この筆は、私自身だから。
静かに、筆が動いた。
最初は震え、線は歪んだ。
何度も描き損じ、過去の絶望が再び襲いかかる。
筆を置こうとするが、それでも、彼女は筆を離さなかった。
この筆は、ユン自身の「生」そのものだったからだ。
絶望の淵から、わずかな希望の光を手繰り寄せるように、彼女はキャンバスに向き合い続ける。
一滴の色が、静かに布を染めた。
点から線が生まれ、形が浮かび上がっていく。
色が落ち、形が現れる。
それは、怒りでも反抗でもない。
ただ、“生きようとする意志”だった。
翌朝、ヴァロワがアトリエを訪れた時、ユンはキャンバスに向かっていた。
彼女の背に朝日が差し込む。そこには、かつての迷いも、恐れもなかった。
「描くのを……やめないのか」
「やめたら、ほんとに終わる気がして」
ユンは小さく笑った。
「終わりじゃないよ。これは、始まり。
誰に否定されても、私には、まだ……この手がある」
次回予告
筆を取り戻したユン。だが、再起の道は平坦ではない。
それでも、彼女の絵は地下へ、路地へ、そしてまた誰かの心へ——広がっていく。
“異端者”とされた絵は、街の地下をめぐり、誰かの手で密かに複製されはじめる。
芸術の亡命者たちが、地下に創る“もうひとつの美術館”——
それは、美を奪われた者たちが最後に拠る、小さな革命の灯。
🖋 第十一話
「地下アトリエと、消せない絵」
その絵は、禁じられても、塗りつぶされても、誰かの心に焼きついていく
そして“影の芸術運動”が、静かに動き出す。
追われる身となったユンたちが、地下で始める“もうひとつの美術館”とは?