目次
ブックマーク
応援する
5
コメント
シェア
通報

第10話 迫る沈黙、封じられた絵筆

 ユンは、自宅のアトリエにこもっていた。


《無名の光》のスケッチは、壁に無造作に貼られている。

見るたびに胸が締めつけられる。

それは、彼女自身の断罪文のように見えた。

描ききったはずの絵が、今は自分を見つめ返してくる。責めるでもなく、ただ沈黙して。


 筆も、沈黙していて、何も語らなかった。


ヴァロワは何度も訪れたが、ユンは絵筆を握ろうとしなかった。

「まだ……描けないの」

その声はかすれていて、どこか他人事のようだった。


追放処分が正式に下ったのは、それから三日後のことだった。

王立画学院、そして王国芸術評議会からの通達——

“エミリー・ブランシュ(ユン)、リアン=セドル・ヴァロワの両名を、美術界より永久除名する。

以後、作品の展示・発表・流通を禁ずる。”


 その通達の、白い紙に書かれた冷たい文字が、まるで彼女の存在そのものを塗り潰すかのように重くのしかかる。

画材店は彼女達への販売を拒否し、付き合いのあった画商は一様に顔を背けた。

取引銀行からは融資の打ち切りが示唆しさされ、生活の基盤すら危うくなる。


それは、画家にとって、「死刑宣告」に等しいものだった。


ユンは思った。

——私は本当に、描くことしかできない人間だったのか?

もしそうなら、もう生きる場所はないのかもしれない、この世界に、私の居場所なんてない。


その夜、アトリエの窓が叩かれた。

窓を開けると、そこには小さな影が立っていた。かつてユンと同じクラスメイトの少女のひとり——ミレイユだった。


「エミリー……この絵、ほんとうに“悪い絵”なの?」


少女の手には、新聞に載った《無名の光》の切り抜きが握られていた。

握りしめられた紙は、折れて皺だらけだった。だがその目には、真っすぐな問いが宿っていた。


「この人たちの顔、私……好きだよ。泣いてるのに、あったかい。

 見てると、見てると・・・・・・、なんだか、描きたくなるの。」


ユンは何も言えなかった。だが、胸の奥に、久しく感じなかった震えが芽生えた。


 その夜、ユンはようやくイーゼルの前に立った。


震える手で、古びた筆を握りしめる。キャンバスは真っ白なまま、じっと彼女を待っていた。

あの日からずっと沈黙していた筆が、手の中で少しだけ重く感じられた。

恐れるように、祈るように、ユンは筆先を近づけた。


 描けるかどうかは分からない。でも、それでも、描こう。

誰の許可もいらない。誰の評価もいらない。

この筆は、私自身だから。


 静かに、筆が動いた。


 最初は震え、線は歪んだ。

何度も描き損じ、過去の絶望が再び襲いかかる。

筆を置こうとするが、それでも、彼女は筆を離さなかった。

この筆は、ユン自身の「生」そのものだったからだ。

絶望の淵から、わずかな希望の光を手繰り寄せるように、彼女はキャンバスに向き合い続ける。


 一滴の色が、静かに布を染めた。

点から線が生まれ、形が浮かび上がっていく。

色が落ち、形が現れる。

それは、怒りでも反抗でもない。

ただ、“生きようとする意志”だった。


翌朝、ヴァロワがアトリエを訪れた時、ユンはキャンバスに向かっていた。

彼女の背に朝日が差し込む。そこには、かつての迷いも、恐れもなかった。


「描くのを……やめないのか」

「やめたら、ほんとに終わる気がして」

ユンは小さく笑った。


「終わりじゃないよ。これは、始まり。

誰に否定されても、私には、まだ……この手がある」


 次回予告

筆を取り戻したユン。だが、再起の道は平坦ではない。

それでも、彼女の絵は地下へ、路地へ、そしてまた誰かの心へ——広がっていく。

“異端者”とされた絵は、街の地下をめぐり、誰かの手で密かに複製されはじめる。

芸術の亡命者たちが、地下に創る“もうひとつの美術館”——

それは、美を奪われた者たちが最後に拠る、小さな革命の灯。


🖋 第十一話

「地下アトリエと、消せない絵」

その絵は、禁じられても、塗りつぶされても、誰かの心に焼きついていく

そして“影の芸術運動”が、静かに動き出す。

追われる身となったユンたちが、地下で始める“もうひとつの美術館”とは?


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?