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第11話 地下アトリエと、消せない絵

 追放から一ヶ月が過ぎた。

ユンとヴァロワは、かつての画学生という肩書も、公的な展示の場も、すべてを奪われていた。


だが、彼らにはまだ“描く”という手段が残されていた。

そして、その絵に“心を動かされた”人々がいた。


「見せたい場所があるの」

そう言ったのは、ミレイユだった。


彼女に連れられ、二人が向かったのは、旧市街の外れにある、普段は誰も足を踏み入れない廃工場の地下。

かつて炭鉱夫の談話室だったというその空間には、今、数枚の絵が無造作に貼られていた。


冷たい地下の空気に、絵の具と石灰、そしてほこりの混じった独特の匂いが漂う。

壁にはすすけたレンガ、天井にはひび割れた蛍光灯の下、粗野ながらも力強い線で描かれた絵が並んでいた。

そして、そこに集う目は、どこまでも澄んでいた。


「ここが……?」


 「“私たちだけの美術館”よ」


 ミレイユが笑った。


 そこでは、《無名の光》のコピーを持ち込んだ者、追放前に密かに写し取っていた者、ユンの旧作を隠し持っていた者、

そして……

描きたいのに描く場を持てなかった若き“異端者”たちが、そこにいた。


「ここでは、どんな絵でも見せられるの?」

ヴァロワが問うと、一人の少年が答えた。

「ええ。誰に認められなくても、自分が“本物”だと思えばいい。それで充分です」


その言葉は、かつて学院の教壇からは決して聞けなかった響きを持っていた。


ミレイユがユンの腕をそっと引いた。

 「ねえ、エミリー。学院は、あなたの絵を公式記録から消したけど……本当は、消せなかったんだよ。だって、私たちの心には、ずっと残ってるもの」彼女の言葉に、ユンはハッと顔を上げた。


そして、ユンは壁の一角に、新しく描いた絵をかけた。


《静かなる始まり》と題されたその絵には、荒れた土地に芽吹く一本の若木が描かれていた。

葉はまだ出ていない。空も灰色。

だが、土は確かに湿り気を含み、根は深く息づいている。


「……これ、ユンの絵なの?」

誰かがそう呟いた。

「“怒り”でも、“拒絶”でもない……希望……?」


ユンは、ただ静かに笑った。

だが、それでよかった。

言葉では届かないところに、絵が届けばいい。


その夜以降、“地下アトリエ”は少しずつ評判を呼びはじめる。

密かに、口伝えで、少数の者たちが訪れるようになった。

彼らは言う・・・・・・「ここに、今の本当の絵がある」と。


ヴァロワは、壁に向かって描きはじめた。


絵具もキャンバスも尽きたから、炭と石灰で直接、レンガに線を走らせる。


 かつては最高の画材と完璧な技法にこだわり抜いた彼が、今、無骨な壁に直接筆を走らせる姿。

それは、完璧を追い求め「こうあるべきだ」と、押し殺していた感情や衝動を、初めて絵にぶつけた瞬間。


 彼は、ずっと縛られていた、正しさという檻のような信念や理想、

 ようやくそのかせから解き放たれ、自由になれたのだ


 指先で擦り付けられた炭の粉が、彼自身の内側の壁を打ち破る音のように響く。

 “消せない絵”が、地下の壁に次々と浮かび上がった。


そのなかには、見覚えのある姿があった。

老女の涙、労働者の手、祈る子ども

《無名の光》に描かれていた“無名の人々”が、今ここに“再び生きていた”。


「消されないって、こういうことか」

ユンがぽつりと漏らした。


燃やされても、禁止されても、人の中に残るなら……それはもう、“消せない絵”なんだ。

ユンはそう確かに思った。


絵は展示されずとも、誰かの中に宿れば、それは生きている。

筆が奪われても、壁があれば描ける。

それが・・・・・・“地下美術館”の静かなはじまりだった。


その夜以降、“地下アトリエ”は少しずつ評判を呼びはじめる。密かに、口伝えで、少数の者たちが訪れるようになった。

 彼らは言う……「ここに、今の本当の絵がある」と。

だが、その噂は、地下の闇に留まり続けるとは限らなかった。

 どこかで耳をそばだてている者がいるかもしれない。壁に描かれる「消せない絵」は、同時に、彼らの存在を浮き彫りにする危険性も孕んでいた。


次回予告


火は地下で灯り、密やかに広がっていく。

だが、権力者たちもまた、その存在に気づきはじめていた。


 第十二話

「密告と焚書、そして地下に咲く」

ユンの絵は本当に“誰にも奪えないもの”なのか?

検閲と弾圧の手が迫る中、美の種子はどこまで根を張れるのか?

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