追放から一ヶ月が過ぎた。
ユンとヴァロワは、かつての画学生という肩書も、公的な展示の場も、すべてを奪われていた。
だが、彼らにはまだ“描く”という手段が残されていた。
そして、その絵に“心を動かされた”人々がいた。
「見せたい場所があるの」
そう言ったのは、ミレイユだった。
彼女に連れられ、二人が向かったのは、旧市街の外れにある、普段は誰も足を踏み入れない廃工場の地下。
かつて炭鉱夫の談話室だったというその空間には、今、数枚の絵が無造作に貼られていた。
冷たい地下の空気に、絵の具と石灰、そして
壁にはすすけたレンガ、天井にはひび割れた蛍光灯の下、粗野ながらも力強い線で描かれた絵が並んでいた。
そして、そこに集う目は、どこまでも澄んでいた。
「ここが……?」
「“私たちだけの美術館”よ」
ミレイユが笑った。
そこでは、《無名の光》のコピーを持ち込んだ者、追放前に密かに写し取っていた者、ユンの旧作を隠し持っていた者、
そして……
描きたいのに描く場を持てなかった若き“異端者”たちが、そこにいた。
「ここでは、どんな絵でも見せられるの?」
ヴァロワが問うと、一人の少年が答えた。
「ええ。誰に認められなくても、自分が“本物”だと思えばいい。それで充分です」
その言葉は、かつて学院の教壇からは決して聞けなかった響きを持っていた。
ミレイユがユンの腕をそっと引いた。
「ねえ、エミリー。学院は、あなたの絵を公式記録から消したけど……本当は、消せなかったんだよ。だって、私たちの心には、ずっと残ってるもの」彼女の言葉に、ユンはハッと顔を上げた。
そして、ユンは壁の一角に、新しく描いた絵をかけた。
《静かなる始まり》と題されたその絵には、荒れた土地に芽吹く一本の若木が描かれていた。
葉はまだ出ていない。空も灰色。
だが、土は確かに湿り気を含み、根は深く息づいている。
「……これ、ユンの絵なの?」
誰かがそう呟いた。
「“怒り”でも、“拒絶”でもない……希望……?」
ユンは、ただ静かに笑った。
だが、それでよかった。
言葉では届かないところに、絵が届けばいい。
その夜以降、“地下アトリエ”は少しずつ評判を呼びはじめる。
密かに、口伝えで、少数の者たちが訪れるようになった。
彼らは言う・・・・・・「ここに、今の本当の絵がある」と。
ヴァロワは、壁に向かって描きはじめた。
絵具もキャンバスも尽きたから、炭と石灰で直接、レンガに線を走らせる。
かつては最高の画材と完璧な技法にこだわり抜いた彼が、今、無骨な壁に直接筆を走らせる姿。
それは、完璧を追い求め「こうあるべきだ」と、押し殺していた感情や衝動を、初めて絵にぶつけた瞬間。
彼は、ずっと縛られていた、正しさという檻のような信念や理想、
ようやくその
指先で擦り付けられた炭の粉が、彼自身の内側の壁を打ち破る音のように響く。
“消せない絵”が、地下の壁に次々と浮かび上がった。
そのなかには、見覚えのある姿があった。
老女の涙、労働者の手、祈る子ども
《無名の光》に描かれていた“無名の人々”が、今ここに“再び生きていた”。
「消されないって、こういうことか」
ユンがぽつりと漏らした。
燃やされても、禁止されても、人の中に残るなら……それはもう、“消せない絵”なんだ。
ユンはそう確かに思った。
絵は展示されずとも、誰かの中に宿れば、それは生きている。
筆が奪われても、壁があれば描ける。
それが・・・・・・“地下美術館”の静かなはじまりだった。
その夜以降、“地下アトリエ”は少しずつ評判を呼びはじめる。密かに、口伝えで、少数の者たちが訪れるようになった。
彼らは言う……「ここに、今の本当の絵がある」と。
だが、その噂は、地下の闇に留まり続けるとは限らなかった。
どこかで耳をそばだてている者がいるかもしれない。壁に描かれる「消せない絵」は、同時に、彼らの存在を浮き彫りにする危険性も孕んでいた。
次回予告
火は地下で灯り、密やかに広がっていく。
だが、権力者たちもまた、その存在に気づきはじめていた。
第十二話
「密告と焚書、そして地下に咲く」
ユンの絵は本当に“誰にも奪えないもの”なのか?
検閲と弾圧の手が迫る中、美の種子はどこまで根を張れるのか?