地下アトリエに灯った光は、静かに、しかし確かに広がっていた。
街の片隅にいる労働者たち、学院から追われた若者たち、そして名もなき市井の人々。
彼らは夜な夜な、地図にも載らぬその空間に集まり、声もなく“見る”ことでつながっていた。
だが、ある日を境に、空気が変わる。
「誰かが……密告した」
ヴァロワが持ち帰ったのは、文化省の最新の通達だった。
“非合法な展示活動、および反国家的な絵画の流通が確認された。関係者は発見次第拘束すること”
ユンは無言で壁を見つめた。
そこには、彼女が描いた《静かなる始まり》がまだ貼られていた。
けれど、その絵は、すでに“証拠”として命を狙われる存在になりつつあった。
「私の絵が、誰かを危険にさらしてる……?」
その夜、地下アトリエの入り口に火が放たれた。
放火犯の姿はなかったが、逃げ遅れた少年が軽い火傷を負った。
翌朝、壁に描かれていた絵のいくつかは、
だが——燃え残ったものがあった。
黒く焦げた壁の中に、ひとつの絵だけがくっきりと残っていた。
それは、ヴァロワが炭で描いた“泣きながら笑う少女”の絵だった。
輪郭は崩れかけていたが、表情だけはなぜか、鮮やかに残っていた。
「焚書(ふんしょ)っていうのは、文字だけじゃないんだな」
ヴァロワが呟いた。
「でも、火でも消せないものがあるって、証明してしまった」
ミレイユは、包帯を巻いた手で小さな冊子を差し出した。
「これ、描いた人たちの名前も、言葉も、ぜんぶ記録してるの。場所が消えても、声は残るから」
その冊子の表紙には、こう書かれていた。
《誰にも消せない絵》
ユンはそれを受け取り、静かにページをめくった。
誰かが描いた鉛筆画、誰かの残した言葉、そして——
自分の描いた、あの群衆の顔もそこにあった。
「ここが終わるなら、また次を探せばいい」
ユンは言った。
「地下が燃やされるなら、今度は屋根の上から始める。描く場所がなければ、空間を超えて描く」
ヴァロワは少しだけ笑って頷いた。
「じゃあ、筆は折らずに済みそうだな」
夜明け前、ふたりは焦げた地下室をあとにした。
もう“戻る場所”ではなかった。
そして・・・・・・ここからが”新しい絵の始まり”でもあった。