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第13話 放浪の画家たちと、空白のキャンバス

 列車の窓から、広大な大地が流れていく。


ユンとヴァロワは、街を捨て、国境付近の田舎町へ向かっていた。

身分証を持たない旅は、危険と隣り合わせだったが、もう戻る場所もない。


 ユンとヴァロワの向かいの座席には、もう一人の旅人がいた。

 赤髪の画商、ナイル・ヴァルセリオ。

 かつて学院の門前で出会った男は、偶然を装い、しかし明らかに意図を持って同行していた。

 「君たちの“次の絵”を、見逃す気はないからね」

 そう言って笑うその目は、どこまでも真剣だった。


「このあたりじゃ、美術なんて娯楽すらないってさ」

ヴァロワが呟いた。

「それでも、描く意味はあるのかな」


ユンは小さく首を横に振る。

「意味なんて、あとからついてくるよ。

ただ、“描きたい”って気持ちだけが、今は確かにある」


彼女の手には、まだ真っ白なスケッチブック。

《地下アトリエ》を焼け出されて以来、彼女は一度も筆を入れていなかった。


「描く場所を探すより、

描ける“誰か”に出会うほうが先だと思ってる」


そう語ったユンの瞳は、次第に焦点を取り戻していた。


列車を降りたふたりが辿り着いたのは、農民と職人しかいない寒村だった。

だが、そこには不思議な空気があった。

壁には子どもたちが描いたチョークの落書き、納屋の扉には動物の絵、古びた小学校の黒板には、詩の断片・・・・・・。


「……探してた場所って、最初からここにあったのかもね」


村の広場で、ユンはスケッチブックを開いた。

子どもたちが集まってくる。見知らぬ青年も混ざってくる。

誰も名前を聞かない。誰も背景を問わない。

ただ、「何を描くの?」とだけ尋ねてきた。


その問いに、ユンは初めてはっきり答えられた。


「……“今ここにいる人”たちを描くよ」


白いキャンバスに、鉛筆の線が走る。

笑う顔、働く手、疲れた肩、眠る子ども。

どこにでもある、ありふれた日常の風景。

でも・・・・・・どこにもない、誰も描いたことのない“奇跡の絵”。


「ユン。あんたの絵、初めて“光”がある」

少し間をおいて、ヴァロワが呟いた。


彼女は気づいていた。

描かれる者が“生きている”こと。

そして、自分が“見つめている”こと。

その循環が、絵に光を宿すのだと。


数日後、ユンとヴァロワは納屋の壁を借りて、大きな壁画を描くことになった。


  ナイルが目を細め、呟いた。

「……こんなに多くの“描く手”があるのに、どこにもキャンバスがなかったなんて、おかしな話だよ」


 その言葉に、誰からともなく人が集まり始めた。

村人たちの視線が一つにまとまっていく瞬間だった。


 子どもたちも大人たちも寄ってくる。


誰かが布を持ってきた。

誰かが炭を拾い上げた。

老いた指も、子供たちの小さな手も、すべては同じように、絵を描こうとしていた。


「俺も一筆いいか?」

「色はどうする?」

「モデルは俺のばあちゃんだ!」


・・・・・・それはまるで、かつての学院で夢見た“自由な美術”の光景だった。


 彼らは描いていた。

ユンは静かにそれを見つめていた。

(この村にいたのは、観客じゃない。描く理由を持った、たくさんの“画家”だった)


 筆を持つ手はそれぞれ。

  老いた指や子供たちの小さな手など、多様な人々が共に描く光景が描かれ、

 不格好で、色も構図もまちまちだった。けれど、どの絵にも、確かな“物語”がにじんでいた


だが、その空白のキャンバスの裏で、また新たな追跡の影が迫っていた。


地下アトリエの焼け跡から、ユンの名前が書かれたスケッチが見つかったという。

王国芸術評議会は、彼女が“逃亡を続けながら反芸術活動をしている”との声明を発表する。


風の噂は、すぐに辺境の村にまで届いた。

「危険な絵を描く女が、このあたりに潜伏しているらしい」


そしてある夜、広場に飾られた壁画の一部が、何者かに黒い塗料で塗り潰された。


ユンは、その“黒”をじっと見つめ、言った。

「塗り潰された部分に、新しい何かを描こう。

光は、闇の中からも生まれるから」


彼女の声は静かだったが、誰よりも明るく響いた。

その言葉が、村の空気を新たに塗り替えたようだった。




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