列車の窓から、広大な大地が流れていく。
ユンとヴァロワは、街を捨て、国境付近の田舎町へ向かっていた。
身分証を持たない旅は、危険と隣り合わせだったが、もう戻る場所もない。
ユンとヴァロワの向かいの座席には、もう一人の旅人がいた。
赤髪の画商、ナイル・ヴァルセリオ。
かつて学院の門前で出会った男は、偶然を装い、しかし明らかに意図を持って同行していた。
「君たちの“次の絵”を、見逃す気はないからね」
そう言って笑うその目は、どこまでも真剣だった。
「このあたりじゃ、美術なんて娯楽すらないってさ」
ヴァロワが呟いた。
「それでも、描く意味はあるのかな」
ユンは小さく首を横に振る。
「意味なんて、あとからついてくるよ。
ただ、“描きたい”って気持ちだけが、今は確かにある」
彼女の手には、まだ真っ白なスケッチブック。
《地下アトリエ》を焼け出されて以来、彼女は一度も筆を入れていなかった。
「描く場所を探すより、
描ける“誰か”に出会うほうが先だと思ってる」
そう語ったユンの瞳は、次第に焦点を取り戻していた。
列車を降りたふたりが辿り着いたのは、農民と職人しかいない寒村だった。
だが、そこには不思議な空気があった。
壁には子どもたちが描いたチョークの落書き、納屋の扉には動物の絵、古びた小学校の黒板には、詩の断片・・・・・・。
「……探してた場所って、最初からここにあったのかもね」
村の広場で、ユンはスケッチブックを開いた。
子どもたちが集まってくる。見知らぬ青年も混ざってくる。
誰も名前を聞かない。誰も背景を問わない。
ただ、「何を描くの?」とだけ尋ねてきた。
その問いに、ユンは初めてはっきり答えられた。
「……“今ここにいる人”たちを描くよ」
白いキャンバスに、鉛筆の線が走る。
笑う顔、働く手、疲れた肩、眠る子ども。
どこにでもある、ありふれた日常の風景。
でも・・・・・・どこにもない、誰も描いたことのない“奇跡の絵”。
「ユン。あんたの絵、初めて“光”がある」
少し間をおいて、ヴァロワが呟いた。
彼女は気づいていた。
描かれる者が“生きている”こと。
そして、自分が“見つめている”こと。
その循環が、絵に光を宿すのだと。
数日後、ユンとヴァロワは納屋の壁を借りて、大きな壁画を描くことになった。
ナイルが目を細め、呟いた。
「……こんなに多くの“描く手”があるのに、どこにもキャンバスがなかったなんて、おかしな話だよ」
その言葉に、誰からともなく人が集まり始めた。
村人たちの視線が一つにまとまっていく瞬間だった。
子どもたちも大人たちも寄ってくる。
誰かが布を持ってきた。
誰かが炭を拾い上げた。
老いた指も、子供たちの小さな手も、すべては同じように、絵を描こうとしていた。
「俺も一筆いいか?」
「色はどうする?」
「モデルは俺のばあちゃんだ!」
・・・・・・それはまるで、かつての学院で夢見た“自由な美術”の光景だった。
彼らは描いていた。
ユンは静かにそれを見つめていた。
(この村にいたのは、観客じゃない。描く理由を持った、たくさんの“画家”だった)
筆を持つ手はそれぞれ。
老いた指や子供たちの小さな手など、多様な人々が共に描く光景が描かれ、
不格好で、色も構図もまちまちだった。けれど、どの絵にも、確かな“物語”が
だが、その空白のキャンバスの裏で、また新たな追跡の影が迫っていた。
地下アトリエの焼け跡から、ユンの名前が書かれたスケッチが見つかったという。
王国芸術評議会は、彼女が“逃亡を続けながら反芸術活動をしている”との声明を発表する。
風の噂は、すぐに辺境の村にまで届いた。
「危険な絵を描く女が、このあたりに潜伏しているらしい」
そしてある夜、広場に飾られた壁画の一部が、何者かに黒い塗料で塗り潰された。
ユンは、その“黒”をじっと見つめ、言った。
「塗り潰された部分に、新しい何かを描こう。
光は、闇の中からも生まれるから」
彼女の声は静かだったが、誰よりも明るく響いた。
その言葉が、村の空気を新たに塗り替えたようだった。