壁画が塗り潰された翌朝、広場には村人たちが集まっていた。
誰がやったのか、皆が顔を見合わせるばかりだった。だが、責める声はなかった。
ただ、沈黙の中で、誰もが「これは終わりではない」と悟っていた。
ユンは黒く塗られた部分に手を触れ、深く息を吸った。
その“黒”は、否定ではなく、問いだった。
「あなたたちは、まだ描くつもりか」と。
ユンは応えた。
「描くよ、みんなと一緒に」
その日から、壁は“個人の絵”ではなくなった。
ユンはあえて、自分のサインを入れなかった。
代わりに、村人たち一人ひとりの手形と名前が、絵の端に押されていった。
塗り潰された箇所には、花が描かれた。
農夫の手から咲いたヒマワリ、編み物をする老女の周りに舞うポピー、空を見上げる子どもとその頭上に浮かぶタンポポ。
ヴァロワが炭で描いたのは、壁に寄り添う人々の姿だった。
背中合わせに立つ者、腕を組む者、笑う者、泣く者——
そのどれもが、壁そのものと一体になっていた。
「これはもう、ただの“絵”じゃない」
ナイルがぽつりとつぶやいた。
「ここにいる人たちの記憶そのもの、この場所で生きてきた“証明”なんだよ」
やがて村の外からも、絵を見に人がやってきた。
元学院生、絵を禁じられた修道士、街で作品を破られた若き女流画家——
彼らはそれぞれの絵具を持ち寄り、少しずつ、少しずつ、壁の上に“声”を重ねていった。
誰かが言った。
「これは、描かれたことがある人のための壁だ」
別の誰かが応じた。
「いや、“まだ描かれていない人”のための壁だよ」
ユンは、筆を置いて振り返る。
そこには、もう自分ひとりの世界はなかった。
この壁は、痛みを抱える者たちが自ら描き、そして立ち会う“連帯”の記録になっていた。
だが、それと同時に——またひとつの危機が近づいていた。
王都では、ユンたちの活動を“反体制的な集団芸術運動”と名指しする機関紙が発行されていた。
「地下美術館の残党による扇動活動」
「絵による共感を利用した組織的抵抗の疑い」
そしてついに、文化省直属の取締官がこの村へ向かったという情報が入った。
ヴァロワは告げる。
「逃げるなら、今だ。君がここにいると、全員が巻き込まれる」
だがユンは、首を横に振った。
「私は、もう“私の絵”を描いてない。
ここに残ってるのは、“みんなの絵”なの。
だから、これは——もう私の物じゃないの」
彼女の言葉に応えるように、村の者たちが立ち上がった。
「この壁を守るよ」
「この絵を、渡さない」
それは声なき革命だった。
武器もない。旗もない。ただ、絵と人だけがある。