月が高く昇ったころ、一人の男が村のアトリエ跡を訪ねてきた。
革のコートに煤の匂い。片目には古い傷跡。手には、焦げたスケッチブックを抱えていた。
「ユン……だな」
低い声がアトリエの扉を震わせた。
ユンとヴァロワは身構えたが、ナイルが一歩前に出る。
「誰だ、お前は」
男は名乗った。「・・・・・・ザン・レヴィク。かつて地下美術館で、火を放った者だ」
その名に、ヴァロワの表情が一変する。
「……お前、絵画破壊犯じゃないか。美術館の作品を焼いた」
ザンは黙って、スケッチブックをユンに差し出した。
「あれは破壊じゃなかった。……葬送だった」
ユンは受け取ったスケッチブックをめくる。煤けたページのあちこちに、かつて展示されていた美術品の断片——目元だけの肖像、ねじれた光の陰影、焼け残ったキャンバスの端が描き込まれていた。
「美術館は、死者の牢屋だった。描いた者も、観る者も、過去に縛られていた。……俺は、解放したかった」
ナイルが呆れたように口を挟む。
「それが“火を放つ”ことかよ。解放じゃなくて破壊って言うんだ、それは」
ザンは否定しなかった。ただ、ゆっくりと煙草に火をつけた。
「今さら弁解するつもりはない。だが、あのとき燃え残った一枚があった。名前もない、少女の肖像。……おそらく、お前の描いたものだ」
ユンの手が止まる。
「——“目を閉じて笑う少女”?」
ザンは頷いた。
「あれだけは燃えなかった。燃やせなかった。今も、俺の記憶の中で笑っている」
アトリエに沈黙が落ちる。焚き火の明かりが、三人と一人の顔を揺らめかせた。
「……何が欲しくて、ここに来た」
ヴァロワが問いかけた。
ザンは、言葉を選ぶようにゆっくりと答えた。
「革命は、起こらなかった。焼け跡には、何も残らなかった。でも、お前たちはまだ“描いてる”んだろう?」
ユンは静かに頷いた。
「だったら、俺の記憶を——描き直してくれ。燃やすしかなかった“何か”を、お前の手で残してくれ」
ナイルが小さくため息をつく。
「……また、面倒な奴が増えたな、絵を描く旅のはずが、罪人の更生所になってきた」
だが、ヴァロワは真顔で言った。
「俺たちは“語る”手段として描いている。だから、その過去も、向き合うべきだ」
ユンは焚き火に向かってスケッチブックを開く。
煤けたページに、新しい線を刻む。
かつて炎に包まれた少女が、今、静かに目を開けた。
「……描くよ。これは、あなたの罪の絵じゃない。——“まだ終わっていない革命”の肖像」
火の明かりが、夜を切り裂いた。
その絵は、燃え残る記憶とともに、新たな命を宿し始めていた。