朝靄を割って、小さな村が姿を現した。
地図にも載らないその村は、“沈黙の谷”と呼ばれていた。
石造りの家々には古い煤の跡が残り、道には花のような灰が舞っていた。季節外れの祭の準備が進められていたが、どこにも華やかさはない。赤や金の布が揺れるが、装飾はすべて色を抜いたように色褪せていた。
「ここ……ほんとに祭りやってるのか?」
ナイルが不審げに呟く。
村の広場では、住民たちが静かに集まり、何かを見つめていた。
だがその中心には、壇も、像も、何もなかった。
「——これは、“描かない祭”なんです」
声をかけてきたのは、黒いショールを被った老女だった。
「この村では、かつて起きた悲劇を“絵にしない”ことで守ってきたのよ。形にすれば、呪いになるってね」
ヴァロワが眉をひそめる。
「……記録しないことが、記憶になるってことか」
ユンは沈黙のなかで、何かを感じ取ろうとしていた。
老女の背後、壁一面に広がる古い土壁。そこに、誰かが一度描き、そして何かで塗りつぶしたような痕跡があった。
「これは?」
老女が目を伏せる。
「昔、絵描きがいたよ。村の娘を描こうとして、村ごと呪われた。……以来、絵は封じられた。今でも祭の中心には“何もない”ことで意味をなしているの」
ナイルが嘆息する。
「こじつけにもほどがある。絵が呪うなんて」
「だが、描かないことで記憶が美化されるなら、それもまた虚構だ」
ヴァロワがつぶやく。
「俺たちは“忘れさせないために”描いてる。なのに、ここでは“忘れるために”描かないのか」
夜、村の儀式が始まった。
焚き火を囲んだ人々は、無言のまま輪になり、ひとつの動作を繰り返す。
手のひらで空をなぞるように、まるで“形なき何か”を描いているようだった。
ユンの目がそれに釘付けになる。
「……あれ、絵だ」
「え?」ナイルが聞き返す。
「空に、“描いてる”。手で。誰にも見えない、形なき絵を」
それは、言葉でも記録でもない、純粋な動きだった。
描こうとした心だけが、そこに浮かび上がっていた。
ユンはスケッチブックを開こうとした——が、止まった。
「これは、私が描くべきじゃない……この記憶は、ここに生きる人のものだから」
彼はページの代わりに、自分の手をそっと宙に伸ばす。
そして、村人たちと同じように、描くような動作を繰り返した。
——誰の目にも見えない、だが確かに存在する絵。
炎の光が、村の輪を優しく包んだ。
誰も言葉を発しなかったが、その夜、確かに“なにか”が祝われていた。
記録されず、だが忘れ去られもしない、形なき祝祭。
ユンは目を閉じて微笑んだ。
「……これも、絵、なのかもしれないね」
その姿を、少し離れた場所から見つめていた影があった。
フードの下、燃え残ったスケッチブックを抱えたザンが、静かにその場を後にした。
風が一枚、焦げたページをめくった。そこには、微かに“目を閉じた少女”の輪郭が残っていた。
次回予告
絵が語らないなら、誰が語るのか。
“中央”へと近づく旅の先に、ついにユンたちは“名前を奪われた画家たち”の街に辿り着く——
第十八話
風化した壁と、記憶の肖像
かつて全ての絵に署名が禁じられた都市で、ユンたちは“名を持たない画家たち”の残した連作に出会う。
それは、声なき声の集積だった——