その村は、地図にも記されていなかった。
風に削られた岩山の裾野。乾いた土に苔むした石垣。まるで時間そのものが、村ごと忘れてしまったような、沈黙の集落だった。
「……誰も、いない?」
ナイルが警戒するように周囲を見渡す。だが、人影はなく、代わりに崩れかけた礼拝堂の鐘楼だけが、静かに佇んでいた。
ユンは、壁に寄り添うように立ち尽くす。
朽ちたレンガの隙間から、かすかに覗くものがあった。色あせた絵の断片。壁画——だろうか。
「この村、かつては絵師の集落だったらしい。放浪の宗教画家たちが、巡礼の途中で立ち寄る場所だったとか」
ヴァロワが持っていた古い旅人の記録帳に、そう書かれていた。
ユンは指先で壁をなぞった。
かすかに残る筆致、鉱物顔料のざらつき。風と時間に侵されながら、それでも“誰かの信仰”は、この壁に宿っていた。
「……描き直せるかもしれない」
「ユン?」ナイルが振り返る。「修復、するつもり?」
ユンは頷く。
「いいえ、修復じゃない。続きを描くの。ここにいた誰かが、何かを残そうとしていた……その続きを、わたしが引き受けたい」
ヴァロワはしばらく黙っていたが、やがて笑みを浮かべた。
「君がそう言うなら、僕はキャンバスを用意しよう。絵筆を借りるのは、いつものことだ」
ナイルはため息をついた。
「……まったく、どこに行っても絵を描くのな。だが、いいさ。俺は見張りでもしてる。どうせ、こういうのは俺の手には負えん」
三人はその場に簡易なアトリエを作り始めた。
ユンは村の小さな泉から水を運び、古い鉱石をすりつぶして顔料を調合する。
ヴァロワは、朽ちかけたベンチを削って額縁を作り始めた。
ナイルは礼拝堂の塔に登り、周囲の山道を監視した。過去に芸術が迫害された土地——警戒は怠れない。
日が傾く頃、ユンの筆が動き始めた。
かすかに残る壁画の輪郭を読み解き、そこにあったであろう“祈りの場面”を再構成していく。
描かれるのは、顔のない群像。貧しき者、傷ついた者、口を閉ざした者たちが、天を見上げている。
そして彼らの上には、誰でもない、しかし確かに“在る”何かの光。
「……完成ではない。でも、祈りの“続きを描く”という意味では、今のわたしにできる限りのことをした」
ユンは筆を置いた。
その時、礼拝堂の奥からかすかな足音が聞こえた。
振り返ると、そこには白髪の老女が一人、立っていた。
——まるで、長い時間の向こうから、絵と共に浮かび上がってきたような静けさで。
老女は、出来上がった絵をしばらく見つめてから、ゆっくりと語った。
「昔、この村ではね、“顔を持たぬ神”を描いていたのよ。名前のない神様。誰にも似ず、誰にも属さない……それが、この村の信仰だった」
「……そして、この絵はね、忘れられた祈りの“記憶”なのよ。けれど、あなたが描いてくれたことで、思い出されたのかもしれないわね」
ユンは、静かにその言葉を胸に刻んだ。
老女は微笑んだ。
「そしてあなたは、その続きを描いてくれた。——ありがとう。あなたたちが来るのを、待っていたのかもしれないわね、この壁も、神も」
老女は、ユンの手を取り、そしてその背中は、ゆっくりと坂道の向こうに消えていく。
残されたキャンバスを見つめながら、ユンはふと心の中でつぶやいた。
「・・・・・・これは絵じゃなくて、誰かの祈りの“記憶”だったのかもしれない」
手のひらに残る温もりだけが、その言葉を肯定するようだった。
風が、壁画を撫でていった。
かつて捨てられた村に、再び絵が戻った。
それは芸術でも、信仰でも、あるいはただの“願い”だったのかもしれない。
だが、ユンの筆はまた一つ、名もなき祈りと今を結びつけたのだった。