目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

第18話 風化した壁と、記憶の肖像

 その村は、地図にも記されていなかった。

 風に削られた岩山の裾野。乾いた土に苔むした石垣。まるで時間そのものが、村ごと忘れてしまったような、沈黙の集落だった。


 「……誰も、いない?」


 ナイルが警戒するように周囲を見渡す。だが、人影はなく、代わりに崩れかけた礼拝堂の鐘楼だけが、静かに佇んでいた。


 ユンは、壁に寄り添うように立ち尽くす。

 朽ちたレンガの隙間から、かすかに覗くものがあった。色あせた絵の断片。壁画——だろうか。


 「この村、かつては絵師の集落だったらしい。放浪の宗教画家たちが、巡礼の途中で立ち寄る場所だったとか」

 ヴァロワが持っていた古い旅人の記録帳に、そう書かれていた。


 ユンは指先で壁をなぞった。

 かすかに残る筆致、鉱物顔料のざらつき。風と時間に侵されながら、それでも“誰かの信仰”は、この壁に宿っていた。


 「……描き直せるかもしれない」


 「ユン?」ナイルが振り返る。「修復、するつもり?」


 ユンは頷く。

 「いいえ、修復じゃない。続きを描くの。ここにいた誰かが、何かを残そうとしていた……その続きを、わたしが引き受けたい」


 ヴァロワはしばらく黙っていたが、やがて笑みを浮かべた。

 「君がそう言うなら、僕はキャンバスを用意しよう。絵筆を借りるのは、いつものことだ」


 ナイルはため息をついた。

 「……まったく、どこに行っても絵を描くのな。だが、いいさ。俺は見張りでもしてる。どうせ、こういうのは俺の手には負えん」


 三人はその場に簡易なアトリエを作り始めた。


 ユンは村の小さな泉から水を運び、古い鉱石をすりつぶして顔料を調合する。

 ヴァロワは、朽ちかけたベンチを削って額縁を作り始めた。

 ナイルは礼拝堂の塔に登り、周囲の山道を監視した。過去に芸術が迫害された土地——警戒は怠れない。


 日が傾く頃、ユンの筆が動き始めた。

 かすかに残る壁画の輪郭を読み解き、そこにあったであろう“祈りの場面”を再構成していく。


 描かれるのは、顔のない群像。貧しき者、傷ついた者、口を閉ざした者たちが、天を見上げている。

 そして彼らの上には、誰でもない、しかし確かに“在る”何かの光。


 「……完成ではない。でも、祈りの“続きを描く”という意味では、今のわたしにできる限りのことをした」

 ユンは筆を置いた。


 その時、礼拝堂の奥からかすかな足音が聞こえた。

 振り返ると、そこには白髪の老女が一人、立っていた。

——まるで、長い時間の向こうから、絵と共に浮かび上がってきたような静けさで。


老女は、出来上がった絵をしばらく見つめてから、ゆっくりと語った。


 「昔、この村ではね、“顔を持たぬ神”を描いていたのよ。名前のない神様。誰にも似ず、誰にも属さない……それが、この村の信仰だった」

 「……そして、この絵はね、忘れられた祈りの“記憶”なのよ。けれど、あなたが描いてくれたことで、思い出されたのかもしれないわね」


ユンは、静かにその言葉を胸に刻んだ。


 老女は微笑んだ。

 「そしてあなたは、その続きを描いてくれた。——ありがとう。あなたたちが来るのを、待っていたのかもしれないわね、この壁も、神も」


 老女は、ユンの手を取り、そしてその背中は、ゆっくりと坂道の向こうに消えていく。


残されたキャンバスを見つめながら、ユンはふと心の中でつぶやいた。

「・・・・・・これは絵じゃなくて、誰かの祈りの“記憶”だったのかもしれない」


 手のひらに残る温もりだけが、その言葉を肯定するようだった。


  風が、壁画を撫でていった。


 かつて捨てられた村に、再び絵が戻った。

 それは芸術でも、信仰でも、あるいはただの“願い”だったのかもしれない。


 だが、ユンの筆はまた一つ、名もなき祈りと今を結びつけたのだった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?