「……あれは、誰かの絵?」
ナイルがぽつりと言った。
三人が立ち止まったのは、廃村に近い丘の中腹。小さな石造りの礼拝堂の壁に、ひときわ異様なフレスコ画が残されていた。
かすれた赤、ひび割れた青。だが色の背後には、息を呑むような繊細さと、精緻な構図があった。人間の筋肉、衣服のひだ、光の反射、そして──それをすべて乗り越えて、見る者を正面から撃つような、視線。
「すごい……」
ユンは、思わず手帳を取り出して模写を始めていた。
「この“眼”だけで、生涯分の真理を描いてるような……」
ヴァロワが低くつぶやく。
「名は書かれていない」とナイルが言った。「でも、聞いたことがある。ここには《無名の工房》と呼ばれる画家集団がいたって」
そのとき、背後で声がした。
「……“無名”ではないさ。名は、絵に刻まれている」
振り返ると、風に長髪をなびかせた老人が立っていた。
青のベルベットのマントに、銀の刺繍。だが身なりよりも、深く沈んだ瞳が印象的だった。
手には折りたたまれたパレットと、絵筆の入った革の鞄。
「アルベール・ノクターン……?」
ヴァロワが目を見開く。「あの、“すべての署名を剥がした男”?」
「いや、剥がしたのではない。“署名が消えた世界で、何が残るか”を試しているだけさ」
彼はにこりと笑うと、礼拝堂の中へ三人を招いた。
内部には、さらにいくつもの壁画があった。
神の昇天、戦火の都市、胎児を抱える母、──
荒々しく、どこか転生前の現代的な批評性を孕んでいた。
「これは……宗教画か?」とナイルが尋ねる。
「いや、“構造”を描いているのさ」とノクターン。
「私は、神ではなく、世界の“接続面”を描く。それが戦争でも、胎児でも、歯車でも……美しさは、“関係性”の中にしか存在しない」
ユンはその言葉を聞きながら、そっとスケッチブックを開いて筆を走らせていた。
ノクターンはそれに気づき、にやりと笑った。
「君は、描くことで理解しようとするんだね」
「ええ。言葉より、線を信じてます」
「なら、私の“誤り”も描きなさい。画家は師を超えるべきだ」
ヴァロワは壁画の一枚に目を留めた。
それは、白く塗りつぶされた巨大な絵だった。筆致は荒く、表面を覆い隠している。
「……これは?」
「かつての弟子の絵だ。私の模写を続けて、最後に自分で塗りつぶした。名も残さずにね。だが、それも一つの“署名”だろう?」
外では風が吹き抜け、鐘楼の鈴がかすかに鳴った。
ノクターンは、最後にこう言った。
「芸術とは、“見る者の記憶に刻まれるもの”だ。
だから私は、名を消す。だが君たちは……反証を描きなさい。名を刻むことで、世界に抗ってみせろ」
三人は礼拝堂を後にした。
ユンのスケッチには、ノクターンの壁画と、彼の笑みがすでに描き留められていた。
「……あの人は、名を消してるけど、ずっと記憶に残る」
ユンがつぶやいた。
「だとしたら、それが本当の署名だ」とナイルが答えた。
ヴァロワは最後に言った。
「さあ、僕らはどう描く? この時代に、自分の名を」
旅は続く。
名を刻むように、線を重ねながら。
次回予告
ノクターンの館に残された、未完の大作と奇妙な遺言。
“誰にも描けないものを、君たちは描けるか?”
ユンたちは問いに答えるべく、忘れられた礼拝堂へと筆を携えて向かう。
それは、静かな革命の一歩だった。
第二十話
第二十話 誰にも描けない絵、あるいは空白の祈りの前で