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第20話 誰にも描けない絵、あるいは空白の祈りの前で


 「……これが、アルベール・ノクターンの《最後の作》?」


ユンは息をのんだ。


石造りの礼拝堂。その奥に封じられていたのは、幅五メートル以上はあろうかという巨大なフレスコ画。だが、描かれていたのはただ、白い虚無だった。かすかに塗りかけた下地、消された構図、立ちすくむような筆致の迷い。そしてその脇に、古びた手紙が残されていた。


“この絵は、誰にも完成できぬ。だが、もしそれを描ききった者が現れたなら——その者の名は、真に刻まれるだろう。”

——アルベール・ノクターン


「……なにこの、絵画界への挑戦状みたいな遺言は」と、ナイルが呆れたように言った。


「いや、これは挑発じゃない。むしろ……懺悔かもしれない」


ヴァロワが、壁画の下地に手をかざす。目を細め、何かを読み取るようにしていた。


「アルベールは、おそらくこの絵に**“見えないもの”**を描こうとした。誰の目にも映らないが、誰の魂にも触れるような、そんな何かを」


ユンは黙って頷いた。

ノクターンのアトリエで見た、あの奇妙なスケッチ群——逆光の影だけで描かれた肖像、心臓の鼓動を絵に写そうとした記録、夢の中で見た風景を何層にも重ねたカンヴァス——

彼の作品は、現実の再現ではなく、目に映らぬ“真実”への接近だった。




「……描いてみたい」


ユンが言った。


「なあ、正気かよ? “完成できぬ”って、あのノクターンが言ったんだぞ?」とナイル。


「だから描くの。彼が描けなかったものを、私たちが——」


その時、ヴァロワが口を開いた。


「だが、ただの絵ではない。これは、“聖骸”を封じるための絵画だ。触れるなら、覚悟しろ。描ききれなければ……おそらく、絵に呑まれる」


「……聖骸?」


「ああ。絵に封じられた、“かつて神と呼ばれたものの断片”だ。ノクターンはそれを、誰にも暴かれぬよう描きかけのまま閉じた。それでもなお、ここに来た画家たちは、皆——筆を折って帰っていった」


重苦しい沈黙が落ちた。


ユンは、壁画を見つめたまま言った。


「でも、ここにはまだ“下絵”が残ってる。微かにだけど、ノクターンの手が迷った痕跡もある。彼が何を恐れ、何を描こうとしたのか……それをなぞるだけでも、意味はあると思う」


ヴァロワは静かに目を伏せた。


「なら……まずは構図を見出そう。だが“見る”な、“観ろ”。これは鑑賞するものじゃない、交わるものだ」


「そんなの、美術の授業じゃ習わなかったな」と、ナイルは苦笑しながら荷物を下ろした。「だがまあ、面白そうじゃん。呪われた巨匠の“遺作”を描き継ぐとか、最高にスリリングだろ」


その夜。

ユンは、寝袋の中で小さなスケッチブックを開いた。


表紙の裏には、ノクターンの言葉を写した文字——


“誰にも描けないものを、君たちは描けるか?”


静かに筆をとり、ユンは最初の線を引いた。

それは、彼女にとってもまた、“見えないもの”への問いかけだった。


——そして、絵は動き出す。

誰にも描けなかったはずの“何か”を巡って。


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