「……これが、アルベール・ノクターンの《最後の作》?」
ユンは息をのんだ。
石造りの礼拝堂。その奥に封じられていたのは、幅五メートル以上はあろうかという巨大なフレスコ画。だが、描かれていたのはただ、白い虚無だった。かすかに塗りかけた下地、消された構図、立ちすくむような筆致の迷い。そしてその脇に、古びた手紙が残されていた。
“この絵は、誰にも完成できぬ。だが、もしそれを描ききった者が現れたなら——その者の名は、真に刻まれるだろう。”
——アルベール・ノクターン
「……なにこの、絵画界への挑戦状みたいな遺言は」と、ナイルが呆れたように言った。
「いや、これは挑発じゃない。むしろ……懺悔かもしれない」
ヴァロワが、壁画の下地に手をかざす。目を細め、何かを読み取るようにしていた。
「アルベールは、おそらくこの絵に**“見えないもの”**を描こうとした。誰の目にも映らないが、誰の魂にも触れるような、そんな何かを」
ユンは黙って頷いた。
ノクターンのアトリエで見た、あの奇妙なスケッチ群——逆光の影だけで描かれた肖像、心臓の鼓動を絵に写そうとした記録、夢の中で見た風景を何層にも重ねたカンヴァス——
彼の作品は、現実の再現ではなく、目に映らぬ“真実”への接近だった。
「……描いてみたい」
ユンが言った。
「なあ、正気かよ? “完成できぬ”って、あのノクターンが言ったんだぞ?」とナイル。
「だから描くの。彼が描けなかったものを、私たちが——」
その時、ヴァロワが口を開いた。
「だが、ただの絵ではない。これは、“聖骸”を封じるための絵画だ。触れるなら、覚悟しろ。描ききれなければ……おそらく、絵に呑まれる」
「……聖骸?」
「ああ。絵に封じられた、“かつて神と呼ばれたものの断片”だ。ノクターンはそれを、誰にも暴かれぬよう描きかけのまま閉じた。それでもなお、ここに来た画家たちは、皆——筆を折って帰っていった」
重苦しい沈黙が落ちた。
ユンは、壁画を見つめたまま言った。
「でも、ここにはまだ“下絵”が残ってる。微かにだけど、ノクターンの手が迷った痕跡もある。彼が何を恐れ、何を描こうとしたのか……それをなぞるだけでも、意味はあると思う」
ヴァロワは静かに目を伏せた。
「なら……まずは構図を見出そう。だが“見る”な、“観ろ”。これは鑑賞するものじゃない、交わるものだ」
「そんなの、美術の授業じゃ習わなかったな」と、ナイルは苦笑しながら荷物を下ろした。「だがまあ、面白そうじゃん。呪われた巨匠の“遺作”を描き継ぐとか、最高にスリリングだろ」
その夜。
ユンは、寝袋の中で小さなスケッチブックを開いた。
表紙の裏には、ノクターンの言葉を写した文字——
“誰にも描けないものを、君たちは描けるか?”
静かに筆をとり、ユンは最初の線を引いた。
それは、彼女にとってもまた、“見えないもの”への問いかけだった。
——そして、絵は動き出す。
誰にも描けなかったはずの“何か”を巡って。