礼拝堂の壁の前で、ユンは一人静かに立っていた。
夜明け前の灰色の薄明かりの中、誰にも描けなかった絵の前で、彼女は筆を握る。
「線が引ける…けれど、まだ不安定な何かを感じる」
村に入って以来、ずっと感じていた“描けない”感覚が少しずつ消え始めていた。
まるでこの場所だけが、筆を受け入れてくれるようだった。
だが、絵の中からは無音の“呼び声”が聞こえてくるような気配があった。
(何かが、私を呼んでいる……?)
壁画の下地には、ノクターンが描きかけたかすかな構図が残っている。
輪郭はぼやけ、まるで“存在しなかったこと”にされようとしているかのような痕跡。
ユンはそっと筆先を滑らせた。
最初に現れたのは輪。光輪にも虚空の穴にも見える不思議な形だった。
その内側に、人の「眼」が浮かび上がった。
ユンは思わず筆を止めた。
(見られている? いや、私が覗いているのかもしれない)
目の奥には、これまでこの絵に触れた画家たちの断片が流れ込んでくる。
線を引いた者、色を塗り始めた者、途中で絶望した者たち。
誰一人、“奥”まで辿りつけなかった。
だが、彼女は描き上げた。
画面中央の空白に、小さく柔らかな丸みを帯びた椅子を描き加えた。
祈り、休息し、待ち続けていたことの象徴。
飾り気はなく、ただそこに静かに佇むだけの椅子。
椅子の周囲には、ほのかな薄墨色の影を描き足した。
はっきりした形ではなく、風に揺れる布切れのように揺らぐ影。
誰かの記憶を感じさせつつも、姿は見えない。
影の向こうの空白の虚無に向けて、一筋の光が静かに差し込んでいた。
遠い空の裂け目から射す光のように、時間や場所を超えた“希望”や“祈り”を示している。
椅子は“かつてそこにいた誰か”の不在を示し、影は記憶の薄れを表し、光は消えない魂の輝きを伝えていた。
ユンは色彩を最小限に抑え、白、灰色、淡い青だけで、空気の深みを微妙に重ねていく。
その余白は、生きて呼吸するかのように感じられた。
それは消されることなく、形を変えて静かにそこに留まる“見えない祈り”そのものだった。
ユンは初めて知った。
“描けなかったもの”の代わりに、“記憶の空間”を描けるのだと。
三人は静かに礼拝堂を後にした。
外には初めて石灰の村に風が吹き、白い粉が舞い、村と空と三人の肩を優しく包んだ。
「次はどこへ行く?」
ナイルが問いかける。
ユンは微笑んだ。
「まだ“見えないもの”がある。きっとたくさん」
そうして、三人の旅は続いていく。