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第21話 筆を拒む地、石灰の村へ

 礼拝堂の壁の前で、ユンは一人静かに立っていた。

夜明け前の灰色の薄明かりの中、誰にも描けなかった絵の前で、彼女は筆を握る。


「線が引ける…けれど、まだ不安定な何かを感じる」


村に入って以来、ずっと感じていた“描けない”感覚が少しずつ消え始めていた。

まるでこの場所だけが、筆を受け入れてくれるようだった。


だが、絵の中からは無音の“呼び声”が聞こえてくるような気配があった。

(何かが、私を呼んでいる……?)


壁画の下地には、ノクターンが描きかけたかすかな構図が残っている。

輪郭はぼやけ、まるで“存在しなかったこと”にされようとしているかのような痕跡。


ユンはそっと筆先を滑らせた。

最初に現れたのは輪。光輪にも虚空の穴にも見える不思議な形だった。


その内側に、人の「眼」が浮かび上がった。


ユンは思わず筆を止めた。

(見られている? いや、私が覗いているのかもしれない)


目の奥には、これまでこの絵に触れた画家たちの断片が流れ込んでくる。

線を引いた者、色を塗り始めた者、途中で絶望した者たち。

誰一人、“奥”まで辿りつけなかった。


だが、彼女は描き上げた。


画面中央の空白に、小さく柔らかな丸みを帯びた椅子を描き加えた。

祈り、休息し、待ち続けていたことの象徴。

飾り気はなく、ただそこに静かに佇むだけの椅子。


椅子の周囲には、ほのかな薄墨色の影を描き足した。

はっきりした形ではなく、風に揺れる布切れのように揺らぐ影。

誰かの記憶を感じさせつつも、姿は見えない。


影の向こうの空白の虚無に向けて、一筋の光が静かに差し込んでいた。

遠い空の裂け目から射す光のように、時間や場所を超えた“希望”や“祈り”を示している。


椅子は“かつてそこにいた誰か”の不在を示し、影は記憶の薄れを表し、光は消えない魂の輝きを伝えていた。


ユンは色彩を最小限に抑え、白、灰色、淡い青だけで、空気の深みを微妙に重ねていく。


その余白は、生きて呼吸するかのように感じられた。


それは消されることなく、形を変えて静かにそこに留まる“見えない祈り”そのものだった。


ユンは初めて知った。


“描けなかったもの”の代わりに、“記憶の空間”を描けるのだと。


三人は静かに礼拝堂を後にした。


外には初めて石灰の村に風が吹き、白い粉が舞い、村と空と三人の肩を優しく包んだ。


「次はどこへ行く?」

ナイルが問いかける。


ユンは微笑んだ。

「まだ“見えないもの”がある。きっとたくさん」


そうして、三人の旅は続いていく。


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