荒野のさらに北方、切り立った岩山の影に、ひとつの石造りのアトリエがあった。
この一帯はかつて、毛織物工業と交易によって栄えた町々を擁し、絵画においては写実主義が深く根を下ろしていた。
絵筆は技術とともに磨かれ、描くことは信仰や記録であると同時に、職人たちの誇りでもあった。
風と光を測り、色と時間を封じるように描かれた数多の作品たち。
このアトリエもまた、そうした写実の精神を宿す場所として長く存在してきたのだろう。
まるで時代の風雪に試されながら、静かに“在り続けてきた”ような重厚な佇まいだった。
ユンたちはそこに辿り着くと、目を奪われる光景に出くわした・・・・・・
「これは……」
広い壁にかかっていたのは、一組の男女を描いた重厚な肖像画だった。二人は向かい合うように立ち、目を逸らさずに見つめている。
緻密な衣装、手のしぐさ、背景の一つひとつまで、まるで静かに物語っているかのようだった。
「……祝福の場面、なのかしら?」
ユンが呟く。
「結婚式なのかもしれない。」
ナイルが頷く。
「絵の奥に“見えない言葉”が詰まってる」
ヴァロワは壁の反対側に目を移した。そこにはさらに巨大な祭壇画が飾られていた。
幾層にも分かれた構図。
中央には、王座に座す神聖なる存在が描かれ、その周囲には預言者、天からの使者、そして民衆が円を成していた。緻密な細部、群像劇のような構成。
それは神話でもなく宗教でもない、“真理の象徴”としての人間の姿だった。
「これは……かの有名な、セレンとマルクの……」
ヴァロワは呆然と立ち尽くす。「間違いない。彼らの“仕事”だ」
その瞬間、風が途絶えたように思えた。砂塵はおさまり、アトリエの空気に静寂が訪れる。
「……次は、私たちが描く番。風にさらわれても、ここに何かを残すために」
ユンがそう言いかけたとき、誰かの足音が、背後から聞こえてきた。
ヴァロワが振り返る。
その入り口に立っていたのは——
「……セレン、マルク……」
二人は、まるで絵から抜け出したようにそこにいた。だがその姿は、かつてユンたちが知っていたものとは少し異なっていた。
時間に洗われ、何かを乗り越えた人間だけが持つ、静かで澄んだ眼差しをたたえていた。
「……あなたたち、ここで……」
ナイルが驚きを隠せず言う。
「僕らは逃げたんじゃない。ただ、描くべき“最後”を探してここへ来た」
マルクが言った。
「そして見つけたの。何もない場所に、すべてがあることを」
セレンはユンに目を向ける。その手には、完成された最後のスケッチブックがあった。
「これは、まだ未完成」
そう言って、スケッチブックを差し出す。
ユンはそれを受け取る。中には、野原に咲く一輪の花と、それに手を伸ばす人影が描かれていた。
——それは、どこか彼女自身の姿にも重なって見えた。
「君たちのことは知っている。僕たちは、写実画家の代表と謳われた。でも、最近それだけで良いのか疑問を持ち始めた。だから、描いてみて。そうしたら、僕たちも、また新しい何かを描けるかもしれない。」
セレンが囁く。
マルクは、アトリエの祭壇画を見上げる。
「あれは僕らの“最高傑作”だった。でも君たちには、“君たちの最高傑作”を描いてほしい。」
ヴァロワが、そっと目を閉じた。
「……わかった。必ず」
風が再び吹いた。
ユンたちは、それをまっすぐに見つめていた。
アトリエの奥、古びたキャンバスが静かに待っている。
次に描かれるのは、誰の祈りか。
誰の革命か。