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第23話 無音のアトリエと、時間を閉じ込めた窓


 北方の街。

ひび割れた岩壁の影に、沈みかけた陽が淡い線を落としている。

その中に、地下へと続く古びた階段がぽっかりと口を開けていた。


ユン、ヴァロワ、ナイルの三人は、静かにその石段を降りた。

下には、異質な沈黙が支配するアトリエが広がっていた。


——風の音すら届かない。


空気が、時を止めていた。


壁には無数のスケッチ、棚には黄ばんだ画集や欠けたパレット。

乾きかけの油絵具の匂いが、皮膚ではなく記憶に染み込むように漂っている。


「……昨日まで、誰かがここで描いていたような空気」

ユンが呟くと、奥にいたセレンが軽く笑った。


「昨日も描いていたし、今日も……描いてるよ」

声は静かだったが、そこには過去でも未来でもない、ただ“今”を生きている者の気配があった。


マルクは小窓の前に立ち、陽の射さない風景を見つめている。

その背中は、音のない水面のように沈黙を抱えていた。


「……描かせてほしい」

ユンが筆を手に取った。


「写すだけじゃ届かないものがある。私は……私の方法で、描いてみたい」

ナイルが絵具を混ぜ、ヴァロワが鉛筆の芯を削る。


彼女は呟くように言った。

「輪郭が消えても、色が残る。なら、色から始めればいい」


三人は、イーゼルの前に立った。


筆は形を拒み、色は意志を持ちはじめる。

それは抽象でも現実でもなく、ただ彼らの“今”を封じ込めるための、絵だった。


セレンとマルクは、遠巻きにその光景を見つめていた。

すでに彼らが描くべき絵は、ここにはなかったのだ。


ユンのキャンバスに、最初の筆致が走る。

それはまるで、見えない“音”を描こうとする試みだった。


音のないアトリエに、静かに、新しい時が流れ始めた。

“窓”の向こうに、まだ誰も名づけていない風景がぼんやりと浮かんでいた。


ユンが走らせた一筆は、形を描くことを拒んでいた。

色彩は輪郭の外に滲み、どこかにあったはずの「答え」を故意にぼかしてゆく。


ヴァロワは、キャンバスの隅に小さく、けれど確かな線を置いた。

それは風を視覚化したような、細く脈打つ筆跡だった。


赤錆のようなオレンジ、褪せた群青、にじむ墨黒。

絵具は混ざり合いながら、記憶とも未来ともつかぬ「色の層」を生んでいく。


具象でも、抽象でもない。

ただそこには、“時間そのもの”が塗り込められていた。


——やがて、筆が止まる。


ナイルがそっと遠ざかり、三人は黙って作品を見つめた。


光が窓の外から差し込み、キャンバスの表面をかすかに揺らす。

それは、《余白の窓》と名づけられた。


だが、どこにも窓らしき形はなかった。

あるのは、ただ「見えないものが開いている」という感覚。


言葉にならぬ感情。描かれていない風景。

そして、そこに立つ“見る者自身”の影。


セレンが口を開いた。

「……描かれていないものが、いちばん強く見える」


マルクも静かに頷いた。

「君たちの絵だ。確かに、もう僕らの時代じゃない」


ユンは筆を置き、微笑んだ。

「でも……あなたたちがここにいることで、私たちはここまで来られた」


アトリエに再び沈黙が戻る。

けれど、それは静寂ではなく、完成という名の“呼吸”だった。


“窓”の向こうに、誰も知らない風が吹いた気がした。

新しい時代の、始まりを告げるように。


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