北方の街。
ひび割れた岩壁の影に、沈みかけた陽が淡い線を落としている。
その中に、地下へと続く古びた階段がぽっかりと口を開けていた。
ユン、ヴァロワ、ナイルの三人は、静かにその石段を降りた。
下には、異質な沈黙が支配するアトリエが広がっていた。
——風の音すら届かない。
空気が、時を止めていた。
壁には無数のスケッチ、棚には黄ばんだ画集や欠けたパレット。
乾きかけの油絵具の匂いが、皮膚ではなく記憶に染み込むように漂っている。
「……昨日まで、誰かがここで描いていたような空気」
ユンが呟くと、奥にいたセレンが軽く笑った。
「昨日も描いていたし、今日も……描いてるよ」
声は静かだったが、そこには過去でも未来でもない、ただ“今”を生きている者の気配があった。
マルクは小窓の前に立ち、陽の射さない風景を見つめている。
その背中は、音のない水面のように沈黙を抱えていた。
「……描かせてほしい」
ユンが筆を手に取った。
「写すだけじゃ届かないものがある。私は……私の方法で、描いてみたい」
ナイルが絵具を混ぜ、ヴァロワが鉛筆の芯を削る。
彼女は呟くように言った。
「輪郭が消えても、色が残る。なら、色から始めればいい」
三人は、イーゼルの前に立った。
筆は形を拒み、色は意志を持ちはじめる。
それは抽象でも現実でもなく、ただ彼らの“今”を封じ込めるための、絵だった。
セレンとマルクは、遠巻きにその光景を見つめていた。
すでに彼らが描くべき絵は、ここにはなかったのだ。
ユンのキャンバスに、最初の筆致が走る。
それはまるで、見えない“音”を描こうとする試みだった。
音のないアトリエに、静かに、新しい時が流れ始めた。
“窓”の向こうに、まだ誰も名づけていない風景がぼんやりと浮かんでいた。
ユンが走らせた一筆は、形を描くことを拒んでいた。
色彩は輪郭の外に滲み、どこかにあったはずの「答え」を故意にぼかしてゆく。
ヴァロワは、キャンバスの隅に小さく、けれど確かな線を置いた。
それは風を視覚化したような、細く脈打つ筆跡だった。
赤錆のようなオレンジ、褪せた群青、にじむ墨黒。
絵具は混ざり合いながら、記憶とも未来ともつかぬ「色の層」を生んでいく。
具象でも、抽象でもない。
ただそこには、“時間そのもの”が塗り込められていた。
——やがて、筆が止まる。
ナイルがそっと遠ざかり、三人は黙って作品を見つめた。
光が窓の外から差し込み、キャンバスの表面をかすかに揺らす。
それは、《余白の窓》と名づけられた。
だが、どこにも窓らしき形はなかった。
あるのは、ただ「見えないものが開いている」という感覚。
言葉にならぬ感情。描かれていない風景。
そして、そこに立つ“見る者自身”の影。
セレンが口を開いた。
「……描かれていないものが、いちばん強く見える」
マルクも静かに頷いた。
「君たちの絵だ。確かに、もう僕らの時代じゃない」
ユンは筆を置き、微笑んだ。
「でも……あなたたちがここにいることで、私たちはここまで来られた」
アトリエに再び沈黙が戻る。
けれど、それは静寂ではなく、完成という名の“呼吸”だった。
“窓”の向こうに、誰も知らない風が吹いた気がした。
新しい時代の、始まりを告げるように。