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第24話 光の魔術師ラゼル、沈黙の画室


 風が止んだ。


北方の街を越えた先に広がっていたのは、奇跡のように静かな町だった。

石造りの家々は明るい灰色の壁に覆われ、淡い朝の光が斜めに差し込んでいた。


「……音が、ない」


ユンは呟いた。鳥のさえずりも、遠くの話し声もない。

まるで、世界が呼吸を止めているようだった。


そんな町の片隅、小さな看板も出ていない建物の前で、地元の老人がぽつりと告げた。


「この先の画室には、光の魔術師と呼ばれ、光を閉じ込める男がいるよ」


中にいたのは、《ラゼル・ヴェルニウス》という名の寡黙な男だった。

髪は、きつめのパーマ頭、黒衣をまとい、銀の縁の眼鏡をかけ、筆先を止めたまま、ずっと窓の光を見つめていた。


ラゼルの画室は狭く、だが精緻に整えられていた。窓の位置、家具の配置、反射板の角度、すべてが一枚の絵のために存在しているようだった。

描かれているのは、少女が机の上で封筒を開けようとする、ただそれだけの光景——だが、その画布からは、言葉にできないほどの静けさと、強い引力が放たれていた。


「……これは、時が止まってるみたい」

ユンが思わず漏らす。


「時を止めているのではない。沈黙を捉えているのだ」


低く、しかし深い響きをもって、ラゼルが応えた。


「日常は、混沌だ。だが、その中にも、確かに“永遠”が宿る瞬間がある。

私は、それを見つけ、光の中に閉じ込めるために描いている」




ヴァロワは、その構成の緻密さに目を見張った。

「光の入射角まで……計算しているのか?」


「描くというのは、観ることだ。己の欲望ではなく、世界が持つ構造に耳を澄ませよ。

色は光の子であり、影はその記憶だ」


そう語るラゼルの声に、ユンの胸がざわついた。


——私は、描きたいものばかりを見てきた。

——でもこの人は、“見えてしまったもの”を描いている。




その夜、ユンとヴァロワは画室の一隅を借り、絵を描いた。

ラゼルの構図に倣って、ただ部屋に座るナイルをモデルに。


だが、思うように描けない。


「……わたしは、“感情”を込めすぎるのかもしれない」


ユンが絵筆を置いたとき、ラゼルはぽつりと口を開いた。


「感情を込めることは、悪ではない。ただし、それが“光を殺す”こともある」


ユンははっとした。


ラゼルの絵は、冷たく見えるのに、なぜか心を打つ。

それは、彼が“ただ観察したから”ではない。——

彼が、沈黙の中に潜む感情を、待ち、拾い上げたからだ。




翌朝。ユンとヴァロワは、それぞれ新しい構図で絵を描き始めていた。

自分の内ではなく、光の導く先を見つめながら。


「ここには、“時間を描く”方法がある」


そう呟くユンの目には、これまでとは異なる静かな確信が宿っていた。


そしてラゼルは、ただ窓辺に立ち、光の傾きを見つめていた。


「君たちも、やがて光を知るだろう。……それは、絵描きの呪いであり、救いでもある」


 ——沈黙の画室で、彼らは新たな“視る力”を授かったのだった。


次回予告


描くべき光は、ただそこにあった――。

動かぬ読書の姿を前に、ユンとヴァロワは、自らの内側の“騒がしさ”と向き合っていた。

ラゼル・ヴェルニウスが語る、“静けさ”と“語らぬ筆”。

それは技術ではなく、視線そのものを問い直す旅だった。


「色とは、記憶の沈殿だ」

そう言って立ち去ったラゼルの背中に、二人はまだ確かな問いを残していた。


光を描くとは何か。

影を描くとは、何を語らないことなのか。


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