風が止んだ。
北方の街を越えた先に広がっていたのは、奇跡のように静かな町だった。
石造りの家々は明るい灰色の壁に覆われ、淡い朝の光が斜めに差し込んでいた。
「……音が、ない」
ユンは呟いた。鳥のさえずりも、遠くの話し声もない。
まるで、世界が呼吸を止めているようだった。
そんな町の片隅、小さな看板も出ていない建物の前で、地元の老人がぽつりと告げた。
「この先の画室には、光の魔術師と呼ばれ、光を閉じ込める男がいるよ」
中にいたのは、《ラゼル・ヴェルニウス》という名の寡黙な男だった。
髪は、きつめのパーマ頭、黒衣をまとい、銀の縁の眼鏡をかけ、筆先を止めたまま、ずっと窓の光を見つめていた。
ラゼルの画室は狭く、だが精緻に整えられていた。窓の位置、家具の配置、反射板の角度、すべてが一枚の絵のために存在しているようだった。
描かれているのは、少女が机の上で封筒を開けようとする、ただそれだけの光景——だが、その画布からは、言葉にできないほどの静けさと、強い引力が放たれていた。
「……これは、時が止まってるみたい」
ユンが思わず漏らす。
「時を止めているのではない。沈黙を捉えているのだ」
低く、しかし深い響きをもって、ラゼルが応えた。
「日常は、混沌だ。だが、その中にも、確かに“永遠”が宿る瞬間がある。
私は、それを見つけ、光の中に閉じ込めるために描いている」
ヴァロワは、その構成の緻密さに目を見張った。
「光の入射角まで……計算しているのか?」
「描くというのは、観ることだ。己の欲望ではなく、世界が持つ構造に耳を澄ませよ。
色は光の子であり、影はその記憶だ」
そう語るラゼルの声に、ユンの胸がざわついた。
——私は、描きたいものばかりを見てきた。
——でもこの人は、“見えてしまったもの”を描いている。
その夜、ユンとヴァロワは画室の一隅を借り、絵を描いた。
ラゼルの構図に倣って、ただ部屋に座るナイルをモデルに。
だが、思うように描けない。
「……わたしは、“感情”を込めすぎるのかもしれない」
ユンが絵筆を置いたとき、ラゼルはぽつりと口を開いた。
「感情を込めることは、悪ではない。ただし、それが“光を殺す”こともある」
ユンははっとした。
ラゼルの絵は、冷たく見えるのに、なぜか心を打つ。
それは、彼が“ただ観察したから”ではない。——
彼が、沈黙の中に潜む感情を、待ち、拾い上げたからだ。
翌朝。ユンとヴァロワは、それぞれ新しい構図で絵を描き始めていた。
自分の内ではなく、光の導く先を見つめながら。
「ここには、“時間を描く”方法がある」
そう呟くユンの目には、これまでとは異なる静かな確信が宿っていた。
そしてラゼルは、ただ窓辺に立ち、光の傾きを見つめていた。
「君たちも、やがて光を知るだろう。……それは、絵描きの呪いであり、救いでもある」
——沈黙の画室で、彼らは新たな“視る力”を授かったのだった。
次回予告
描くべき光は、ただそこにあった――。
動かぬ読書の姿を前に、ユンとヴァロワは、自らの内側の“騒がしさ”と向き合っていた。
ラゼル・ヴェルニウスが語る、“静けさ”と“語らぬ筆”。
それは技術ではなく、視線そのものを問い直す旅だった。
「色とは、記憶の沈殿だ」
そう言って立ち去ったラゼルの背中に、二人はまだ確かな問いを残していた。
光を描くとは何か。
影を描くとは、何を語らないことなのか。