風の音すら染み込まぬ画室。
ラゼル・ヴェルニウスの沈黙が、ユンとヴァロワの内部に深く沈殿していた。
彼らはまだ、あの町を離れていなかった。
理由はひとつ――「描ききっていない」からだった。
ラゼルが語った“光と沈黙”の言葉が、筆先に潜り込んで離れなかった。
あれから三日。
ユンもヴァロワも、部屋の片隅で同じ構図を描き直し続けていた。
そのモチーフは、「読書するナイル」。
椅子に座り、膝に開いた本をのせて読みふける姿。
ただそれだけの構図。
動きはない。感情の起伏もない。
ただ、窓辺から差し込む斜めの光と、静かな気配だけがそこにあった。
「……難しすぎる」
ユンは筆を止め、深く息を吐いた。
「これほど“描く対象”が動かないのに、描こうとする自分の中の感情がこんなに暴れるなんて……」
ヴァロワは、すでに五枚目のキャンバスを前にしていた。
「動かないからこそ、自分の“焦り”が見えてしまうんだ」
「僕たちはまだ、“何を見ているか”を見極められていない」
そのときだった。
ラゼルがふと現れ、二人の絵を無言で見つめた。
「……色の配置が、語りすぎている」
「影の硬さが、真実を拒んでいる」
指摘は冷静だったが、冷たくはなかった。
彼は何かを否定するのではなく、“削る”ことで純度を引き上げようとしている。
「色を盛るのではない。
静かに、骨の上に“薄い皮膜のような光”を重ねていくのだ。
見る者の記憶が、その先の物語を補うように」
ラゼルは、自身の筆を一本取り、ユンのキャンバスに触れようとした。
だが、その直前で止めた。
「……いや、これは君の仕事だな」
そう言って、彼は後ろに下がった。
ユンは、震えるように小さな一筆を置いた。
それは、ナイルの手の甲に差す、窓辺の斜光だった。
——その瞬間、彼女の中で、描こうとする“欲”が静かに消えた。
残ったのは、ただ「光を写したい」という願いだけだった。
感情でも、欲望でもなく、ただ“そこにある光”に集中すること。
その清冽さが、彼女の絵に初めて生まれた。
一方、ヴァロワは、光の当たらない背後、ナイルの椅子の影の中に、
読まれた本の“記憶の残響”を沈ませるように、ヴァロワは淡い影をひと筆引いた。
まるで、知識や思考が沈殿していくように。
モチーフは同じでも、二人の絵はまったく違っていた。
ユンは「読む者と、その手に降る光」というタイトルを、
ヴァロワは「読後の沈黙」という題を、それぞれの絵につけた。
そしてついに、二人はそれぞれの“完成”に達した。
声はなかった。ラゼルも何も言わなかった。
ただ、絵の前に立ち、しばらく目を閉じたまま、深く頷いた。