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第25話 静けさの下絵、光の余白


 風の音すら染み込まぬ画室。

ラゼル・ヴェルニウスの沈黙が、ユンとヴァロワの内部に深く沈殿していた。

彼らはまだ、あの町を離れていなかった。


理由はひとつ――「描ききっていない」からだった。


ラゼルが語った“光と沈黙”の言葉が、筆先に潜り込んで離れなかった。


あれから三日。


ユンもヴァロワも、部屋の片隅で同じ構図を描き直し続けていた。


そのモチーフは、「読書するナイル」。


椅子に座り、膝に開いた本をのせて読みふける姿。

ただそれだけの構図。


動きはない。感情の起伏もない。

ただ、窓辺から差し込む斜めの光と、静かな気配だけがそこにあった。


「……難しすぎる」

ユンは筆を止め、深く息を吐いた。


「これほど“描く対象”が動かないのに、描こうとする自分の中の感情がこんなに暴れるなんて……」


ヴァロワは、すでに五枚目のキャンバスを前にしていた。


「動かないからこそ、自分の“焦り”が見えてしまうんだ」

「僕たちはまだ、“何を見ているか”を見極められていない」


そのときだった。

ラゼルがふと現れ、二人の絵を無言で見つめた。


「……色の配置が、語りすぎている」

「影の硬さが、真実を拒んでいる」


指摘は冷静だったが、冷たくはなかった。


彼は何かを否定するのではなく、“削る”ことで純度を引き上げようとしている。


「色を盛るのではない。

静かに、骨の上に“薄い皮膜のような光”を重ねていくのだ。

見る者の記憶が、その先の物語を補うように」


ラゼルは、自身の筆を一本取り、ユンのキャンバスに触れようとした。

だが、その直前で止めた。


「……いや、これは君の仕事だな」

そう言って、彼は後ろに下がった。


ユンは、震えるように小さな一筆を置いた。

それは、ナイルの手の甲に差す、窓辺の斜光だった。


——その瞬間、彼女の中で、描こうとする“欲”が静かに消えた。

残ったのは、ただ「光を写したい」という願いだけだった。


感情でも、欲望でもなく、ただ“そこにある光”に集中すること。

その清冽さが、彼女の絵に初めて生まれた。


一方、ヴァロワは、光の当たらない背後、ナイルの椅子の影の中に、

 読まれた本の“記憶の残響”を沈ませるように、ヴァロワは淡い影をひと筆引いた。

 まるで、知識や思考が沈殿していくように。


モチーフは同じでも、二人の絵はまったく違っていた。


ユンは「読む者と、その手に降る光」というタイトルを、

ヴァロワは「読後の沈黙」という題を、それぞれの絵につけた。


そしてついに、二人はそれぞれの“完成”に達した。


声はなかった。ラゼルも何も言わなかった。


ただ、絵の前に立ち、しばらく目を閉じたまま、深く頷いた。


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