町に着いたその日、ユンは眩しさに目を細めた。
花の香りが風に乗って漂い、丘の斜面に建ち並ぶパステル色の家々は、どれもまるで絵画のようだった。
露店には色とりどりの果実やレース、絹のリボンが揺れている。すれ違う人々の声も笑いも、どこか柔らかかった。
「ここは……恋人たちの町だな」
ナイルがそう言うと、ヴァロワが無言で肩をすくめた。
三人が目指すのは、この町に住む画家、ジュリオ・フリネリ。その名は、かつて王都の上流社会に愛された「愛と戯れの画家」として知られ、今はこの地にアトリエを構えているという。
アトリエの門をくぐると、そこにはまるで秘密の庭園のような世界が広がっていた。
薔薇のアーチ、揺れる藤棚、噴水のきらめき、そしてそこに佇む白い石造りの館。
「お客人とは珍しい。どうぞ、散らかった部屋だけど」
現れたジュリオは、やや年上の、だが年齢を感じさせない男だった。瞳にはどこか、子どものような悪戯っぽさが宿っている。絵具の跳ねたシャツのまま、椅子を勧めた。
室内には、描きかけの絵が何枚も立てかけられていた。どれも、やわらかな光と感触に満ちていた。
肌と肌が触れる瞬間、視線が交わる一瞬、頬を寄せ合い笑う恋人たち。
だがそのどれもが、単なる甘美な装飾には見えなかった。
「愛を描くには、まず、知っていなければならない。君たちは、愛を知っているかい?」
ジュリオの問いに、ナイルは少し照れたように笑った。
「俺は……きっと、まだまだ修行中ってやつだな」
ヴァロワは無言で顎を引き、ジュリオと目を合わせようとはしなかった。
ユンは……口を開きかけて、閉じた。
彼女の胸の奥にあるのは、両親のぬくもりも、甘い言葉も、恋の記憶も——何もない。
「わたし……わからないんです。愛って、よくわからない」
その言葉に、ジュリオは静かにうなずいた。
「それでいい。それが出発点だ。知らないから、描くんだ」
翌朝、三人はそれぞれに筆を取った。
ナイルは、どこか寂しげな横顔の女性を描いた。
ヴァロワは、陽の中にまどろむ猫と少年の姿を描いた。
ユンは——目を閉じる少女の手の中に、温かい光をそっと包み込んだ。
絵が完成したとき、ジュリオは言った。
「愛とは、いつも『確かじゃないもの』だ。だからこそ、人は何度でも描きたくなる」
その夜、ユンは一人、丘の上に立った。
「愛って……なんだろうね」
ぽつりとつぶやくと、ヴァロワが隣に立っていた。
「いつか、君が描ける日が来る。——そのとき、俺も見たい」
その声に、ユンは小さく笑った。
「じゃあ……描くよ、わたしなりの愛を」
風が髪を揺らし、星がきらめいた。
しばらくして、背後から足音が近づく。
「……おーい、あんまり語りすぎると、詩人になっちゃうよー?」
ナイルだった。
手には湯気の立つマグを三つ抱えている。
「お前ら、せっかくの夜風だ。飲めば少しは、“愛”ってやつも近づいてくるかもしれないよ」
彼は二人の間に座り、マグを差し出した。
「……ありがとう」
ユンが受け取り、湯気の向こうで笑った。
月の光の下、三人はただ静かに、温かな夜の深まりに身を任せていた。