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第26話 ジュリオと戯れの庭、遠い記憶の果て


 町に着いたその日、ユンは眩しさに目を細めた。


 花の香りが風に乗って漂い、丘の斜面に建ち並ぶパステル色の家々は、どれもまるで絵画のようだった。

露店には色とりどりの果実やレース、絹のリボンが揺れている。すれ違う人々の声も笑いも、どこか柔らかかった。


 「ここは……恋人たちの町だな」

 ナイルがそう言うと、ヴァロワが無言で肩をすくめた。


 三人が目指すのは、この町に住む画家、ジュリオ・フリネリ。その名は、かつて王都の上流社会に愛された「愛と戯れの画家」として知られ、今はこの地にアトリエを構えているという。


 アトリエの門をくぐると、そこにはまるで秘密の庭園のような世界が広がっていた。

 薔薇のアーチ、揺れる藤棚、噴水のきらめき、そしてそこに佇む白い石造りの館。


 「お客人とは珍しい。どうぞ、散らかった部屋だけど」

 現れたジュリオは、やや年上の、だが年齢を感じさせない男だった。瞳にはどこか、子どものような悪戯っぽさが宿っている。絵具の跳ねたシャツのまま、椅子を勧めた。


 室内には、描きかけの絵が何枚も立てかけられていた。どれも、やわらかな光と感触に満ちていた。

 肌と肌が触れる瞬間、視線が交わる一瞬、頬を寄せ合い笑う恋人たち。

 だがそのどれもが、単なる甘美な装飾には見えなかった。


 「愛を描くには、まず、知っていなければならない。君たちは、愛を知っているかい?」


 ジュリオの問いに、ナイルは少し照れたように笑った。

 「俺は……きっと、まだまだ修行中ってやつだな」


 ヴァロワは無言で顎を引き、ジュリオと目を合わせようとはしなかった。


 ユンは……口を開きかけて、閉じた。

 彼女の胸の奥にあるのは、両親のぬくもりも、甘い言葉も、恋の記憶も——何もない。

 「わたし……わからないんです。愛って、よくわからない」


 その言葉に、ジュリオは静かにうなずいた。

 「それでいい。それが出発点だ。知らないから、描くんだ」


 翌朝、三人はそれぞれに筆を取った。


 ナイルは、どこか寂しげな横顔の女性を描いた。

 ヴァロワは、陽の中にまどろむ猫と少年の姿を描いた。

 ユンは——目を閉じる少女の手の中に、温かい光をそっと包み込んだ。


 絵が完成したとき、ジュリオは言った。

 「愛とは、いつも『確かじゃないもの』だ。だからこそ、人は何度でも描きたくなる」


 その夜、ユンは一人、丘の上に立った。

 「愛って……なんだろうね」


 ぽつりとつぶやくと、ヴァロワが隣に立っていた。

 「いつか、君が描ける日が来る。——そのとき、俺も見たい」


 その声に、ユンは小さく笑った。

 「じゃあ……描くよ、わたしなりの愛を」


 風が髪を揺らし、星がきらめいた。


 しばらくして、背後から足音が近づく。

 「……おーい、あんまり語りすぎると、詩人になっちゃうよー?」

 ナイルだった。

手には湯気の立つマグを三つ抱えている。


 「お前ら、せっかくの夜風だ。飲めば少しは、“愛”ってやつも近づいてくるかもしれないよ」


彼は二人の間に座り、マグを差し出した。


「……ありがとう」

 ユンが受け取り、湯気の向こうで笑った。


月の光の下、三人はただ静かに、温かな夜の深まりに身を任せていた。


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