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第29話 カザール、炎の筆で命を描け!


 灰色の雲が山の上に垂れ込め、風が湿った土の匂いを運んでいた。

ユンたちは、峠を越えて辿り着いた小さな村にいた。屋根瓦の苔が濡れ、石畳の隙間に咲く草花が、遠く街道からの旅人を静かに迎える。


「この村の外れにさ、すごい画家が隠れてるらしいね。戦場画で名を馳せた……名前なんだっけ、エステなんとかって」


ナイルがパンをかじりながら言った。


「……エステヴァン・ド・カザール?」

ヴァロワが眉を跳ね上げる。「まさか。もう引退したはずじゃ……」


「いーや、生きてるってさ。病気で体を壊したけど、まだ筆は握ってるらしいよ」


ユンは、カザールという名前に聞き覚えがなかった。ただ、ヴァロワがあれほど動揺するのは珍しい。


「どんな人なの?」


「絵が……怒鳴ってるんだよ。理屈じゃない。見た瞬間、血が沸騰する」


ヴァロワの言葉は、熱を帯びていた。美術史を語るときでさえ、彼がここまで感情をあらわにすることは滅多にない。


その日の夕暮れ、三人は村の外れにあるという“あばら屋”を訪ねた。


扉を開けたのは、無言の中年女性だった。彼女は頷くだけで家の奥へと案内する。


屋敷というには古びた木造の建物。雨漏りの跡が天井に広がり、壁には絵具の飛沫が飛び散っている。どこもかしこも、絵が“生きていた”。


「お前ら、絵描きか?」


奥の部屋から、鋭い声が飛んできた。


そこに立っていたのは、鋼のような雰囲気を纏う男だった。髪には灰がかった白が混じる。だが、片手にはしっかりと筆を握っていた。


「エステヴァン・ド・カザール……さんですか?」


ユンが名を呼ぶと、男は口の端だけで笑った。


「その名を知ってる奴がまだいたか。死んだと思われてた方が都合がいい。今の俺は、描くだけの亡霊だからな」


アトリエの隅には、乾きかけた一枚の大作があった。


描かれていたのは、爆風に吹き飛ばされる兵士たち、炎に焼かれながら抱き合う母子、呻き、叫び、崩れる人々——


「……これが……戦争……?」


ユンは、息を飲んだ。

絵の中から、声が聞こえる気がした。

嘆き、怒号、祈り、咆哮。混沌と絶望。


それは“美”ではなかった。だが確かに、“生”そのものだった。


「描いてるのは、感情だ。魂の断片だ」

カザールは言った。「写実? 技巧? そんなもんで地獄は描けない。……お前ら、何を描いてる?」


誰も、答えられなかった。


その夜。

裏庭で、ユンはカザールと焚き火を囲んでいた。彼は小さなスケッチブックを片手に、無造作に線を走らせていた。


「……弟がいた。十七で志願して、三ヶ月で爆弾に吹き飛ばされた。……絵になんか、なるもんか。あの腐りかけた肉塊を、“美しい死”なんて呼ばせない」

「忘れたくなかった。忘れたら、あいつが本当に死ぬ気がしてな、

だから描く。見たくもない地獄でも、目をそらさずにな」


彼は炎を睨みつけながら続けた。


「だが、あいつの絶叫を、忘れたくなかった。それを描く。それが、俺の絵だ」


ユンは、静かに訊いた。


「……あなたは、なんのために絵を描くの?」


カザールは、焚き火の明かりの中で笑った。


「それを描かねば、俺はもうこの世にいない。俺の怒り、祈り、過ち——俺そのものが、絵の中にしかないんだ」


風が木々を揺らす。火がはぜる。

ユンは、スケッチブックを開いた。手が震えていた。

だがその震えの中に、確かに彼女の“叫び”があった。


あの絵を前にして、何もしない自分のほうが恐ろしかった。

 だが、彼女はまだ、自分が何を描けるのかも知らない。

しかし、この夜、描かねばならない“理由”を、初めて見つけた気がした。


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