灰色の雲が山の上に垂れ込め、風が湿った土の匂いを運んでいた。
ユンたちは、峠を越えて辿り着いた小さな村にいた。屋根瓦の苔が濡れ、石畳の隙間に咲く草花が、遠く街道からの旅人を静かに迎える。
「この村の外れにさ、すごい画家が隠れてるらしいね。戦場画で名を馳せた……名前なんだっけ、エステなんとかって」
ナイルがパンをかじりながら言った。
「……エステヴァン・ド・カザール?」
ヴァロワが眉を跳ね上げる。「まさか。もう引退したはずじゃ……」
「いーや、生きてるってさ。病気で体を壊したけど、まだ筆は握ってるらしいよ」
ユンは、カザールという名前に聞き覚えがなかった。ただ、ヴァロワがあれほど動揺するのは珍しい。
「どんな人なの?」
「絵が……怒鳴ってるんだよ。理屈じゃない。見た瞬間、血が沸騰する」
ヴァロワの言葉は、熱を帯びていた。美術史を語るときでさえ、彼がここまで感情をあらわにすることは滅多にない。
その日の夕暮れ、三人は村の外れにあるという“あばら屋”を訪ねた。
扉を開けたのは、無言の中年女性だった。彼女は頷くだけで家の奥へと案内する。
屋敷というには古びた木造の建物。雨漏りの跡が天井に広がり、壁には絵具の飛沫が飛び散っている。どこもかしこも、絵が“生きていた”。
「お前ら、絵描きか?」
奥の部屋から、鋭い声が飛んできた。
そこに立っていたのは、鋼のような雰囲気を纏う男だった。髪には灰がかった白が混じる。だが、片手にはしっかりと筆を握っていた。
「エステヴァン・ド・カザール……さんですか?」
ユンが名を呼ぶと、男は口の端だけで笑った。
「その名を知ってる奴がまだいたか。死んだと思われてた方が都合がいい。今の俺は、描くだけの亡霊だからな」
アトリエの隅には、乾きかけた一枚の大作があった。
描かれていたのは、爆風に吹き飛ばされる兵士たち、炎に焼かれながら抱き合う母子、呻き、叫び、崩れる人々——
「……これが……戦争……?」
ユンは、息を飲んだ。
絵の中から、声が聞こえる気がした。
嘆き、怒号、祈り、咆哮。混沌と絶望。
それは“美”ではなかった。だが確かに、“生”そのものだった。
「描いてるのは、感情だ。魂の断片だ」
カザールは言った。「写実? 技巧? そんなもんで地獄は描けない。……お前ら、何を描いてる?」
誰も、答えられなかった。
その夜。
裏庭で、ユンはカザールと焚き火を囲んでいた。彼は小さなスケッチブックを片手に、無造作に線を走らせていた。
「……弟がいた。十七で志願して、三ヶ月で爆弾に吹き飛ばされた。……絵になんか、なるもんか。あの腐りかけた肉塊を、“美しい死”なんて呼ばせない」
「忘れたくなかった。忘れたら、あいつが本当に死ぬ気がしてな、
だから描く。見たくもない地獄でも、目をそらさずにな」
彼は炎を睨みつけながら続けた。
「だが、あいつの絶叫を、忘れたくなかった。それを描く。それが、俺の絵だ」
ユンは、静かに訊いた。
「……あなたは、なんのために絵を描くの?」
カザールは、焚き火の明かりの中で笑った。
「それを描かねば、俺はもうこの世にいない。俺の怒り、祈り、過ち——俺そのものが、絵の中にしかないんだ」
風が木々を揺らす。火がはぜる。
ユンは、スケッチブックを開いた。手が震えていた。
だがその震えの中に、確かに彼女の“叫び”があった。
あの絵を前にして、何もしない自分のほうが恐ろしかった。
だが、彼女はまだ、自分が何を描けるのかも知らない。
しかし、この夜、描かねばならない“理由”を、初めて見つけた気がした。