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第30話 炎の筆、燃ゆる革命


 薄曇りの空の下、ユンは街角の古びたベンチに腰を下ろし、スケッチブックを膝に開いていた。手にした鉛筆の芯が、静かに紙の上を彷徨う。


 けれど、彼女が描こうとしているのは、“形”ではなかった。


 カザールのアトリエで見た、あの絵筆の一撃。理屈ではない、まるで雷鳴のように感情を叩きつけるあの筆致が、ユンの胸に焼きついて離れない。


 《理性なき衝動》と《秩序ある激情》。本来なら相反するそれらが、カザールの作品では矛盾なく溶け合っていた。


 ——どうして、あんな絵が描けるの?


 あの日、ユンは思わず尋ねていた。

 「あなたの筆は……生のままに何かを吐き出してる。絵というより……叫びに近い。」


 カザールは少し笑って、答えた。

 「美とは、生きている証さ。うめき声でも、怒鳴り声でも、それを隠さずにキャンバスにぶつければ、それが“芸術”になる。」


 ——ならば、わたしの“声”は、どこへ向かっている?


 鉛筆が、紙の上で力強く走る。怒号を上げる群衆。泣き叫ぶ子ども。拳を振り上げる女たち。けれど顔は描かない。表情を描く代わりに、光と闇の濃淡、震える線だけで、感情そのものを刻み込んでいく。


 「君の線は、まだ“整って”いる。だが、それは本当に君の魂か?」

 かつてヴァロワがそう言ったのを、ふと思い出す。


 整った線では、伝えられないことがある。崩れた輪郭こそが、本当の想いを映すのかもしれない。


 そのとき、誰かが静かに隣に腰を下ろした。


 「……線がいつもより荒い。怒ってるの?」とナイルの声。


 ユンは手を止めて、彼に目を向ける。「怒ってるというより……爆発しそう、かな。」


 ナイルはスケッチブックを覗き込むと、目を見開いた。「……音が聴こえる。」


 「音?」


 「うん。怒鳴り声とか、歓声とか……。なんていうか、風景じゃなくて、人の気配がする。」


 ユンは少し驚いたように笑った。「そんなふうに見える?」


 「うん。……たぶん、今までのユンの絵とは違う。」


 ナイルの言葉は、どこか戸惑いも含んでいた。でも、それは恐れではなく、敬意に近いものだった。


 「描きながら、自分でも誰が描いてるのかわからなくなるの。

 さっきまでの私とは、違う誰かが、鉛筆を握ってるみたいで。」


 「それでいいんじゃない?」ナイルは優しく言った。

 「ユンがユンじゃなくなる瞬間が、きっと一番“ユン”なんだよ。」


 ユンは一瞬だけ目を伏せ、そして描き終えた。

 不意に自分の中から言葉が溢れ、それを紙の端にそっと書き記す。


《無名の者たちの讃歌》。


 風が吹き、ページがふわりとめくれた。

 その先の白紙には、次なる「衝動」が待っている。


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