薄曇りの空の下、ユンは街角の古びたベンチに腰を下ろし、スケッチブックを膝に開いていた。手にした鉛筆の芯が、静かに紙の上を彷徨う。
けれど、彼女が描こうとしているのは、“形”ではなかった。
カザールのアトリエで見た、あの絵筆の一撃。理屈ではない、まるで雷鳴のように感情を叩きつけるあの筆致が、ユンの胸に焼きついて離れない。
《理性なき衝動》と《秩序ある激情》。本来なら相反するそれらが、カザールの作品では矛盾なく溶け合っていた。
——どうして、あんな絵が描けるの?
あの日、ユンは思わず尋ねていた。
「あなたの筆は……生のままに何かを吐き出してる。絵というより……叫びに近い。」
カザールは少し笑って、答えた。
「美とは、生きている証さ。うめき声でも、怒鳴り声でも、それを隠さずにキャンバスにぶつければ、それが“芸術”になる。」
——ならば、わたしの“声”は、どこへ向かっている?
鉛筆が、紙の上で力強く走る。怒号を上げる群衆。泣き叫ぶ子ども。拳を振り上げる女たち。けれど顔は描かない。表情を描く代わりに、光と闇の濃淡、震える線だけで、感情そのものを刻み込んでいく。
「君の線は、まだ“整って”いる。だが、それは本当に君の魂か?」
かつてヴァロワがそう言ったのを、ふと思い出す。
整った線では、伝えられないことがある。崩れた輪郭こそが、本当の想いを映すのかもしれない。
そのとき、誰かが静かに隣に腰を下ろした。
「……線がいつもより荒い。怒ってるの?」とナイルの声。
ユンは手を止めて、彼に目を向ける。「怒ってるというより……爆発しそう、かな。」
ナイルはスケッチブックを覗き込むと、目を見開いた。「……音が聴こえる。」
「音?」
「うん。怒鳴り声とか、歓声とか……。なんていうか、風景じゃなくて、人の気配がする。」
ユンは少し驚いたように笑った。「そんなふうに見える?」
「うん。……たぶん、今までのユンの絵とは違う。」
ナイルの言葉は、どこか戸惑いも含んでいた。でも、それは恐れではなく、敬意に近いものだった。
「描きながら、自分でも誰が描いてるのかわからなくなるの。
さっきまでの私とは、違う誰かが、鉛筆を握ってるみたいで。」
「それでいいんじゃない?」ナイルは優しく言った。
「ユンがユンじゃなくなる瞬間が、きっと一番“ユン”なんだよ。」
ユンは一瞬だけ目を伏せ、そして描き終えた。
不意に自分の中から言葉が溢れ、それを紙の端にそっと書き記す。
《無名の者たちの讃歌》。
風が吹き、ページがふわりとめくれた。
その先の白紙には、次なる「衝動」が待っている。