谷あいの畑に、朝露の光が落ちていた。
雲間から洩れた光が、鋤を握る男の背を淡く照らす。
男は一心にキャンバスへと筆を運んでいた。畑の土を掘る農夫。その背には、穏やかだが確かな威厳が宿っていた——祈る者のように。
「……あなたが、ロジェ・ブランシェル?」
ユンが声をかけると、画家は筆を止め、ゆっくり振り返った。髭を蓄え、日焼けした顔には皺が刻まれている。だがその目は澄んでいた。怒りも悲しみも、すべて受け入れたような目。
「ええ。で、君たちは?」
ヴァロワが一歩前に出る。「旅の途中で、あなたの絵を見たのです。村の広場にあった《農夫と火打ち石》。魂を打たれました」
「魂ねぇ……私の絵をそう言ってくれるのは珍しい。写実は退屈だと、よく言われる」
ユンはその言葉に、心の奥がざらりとした。
(——そんなに、写実がお好きなら、苦しんでる民衆の姿を描いてはどうですか?)
王立画学園で、自分が吐き捨てたあの言葉がよみがえる。
当時の自分は、写実を、ただ現実のコピーだと見下していた。だがいま目の前にある絵は、違う。
「この農夫……あなたは、どんな気持ちで描いたのですか?」
ユンが問うと、ロジェは空を見上げた。
「——祈り、だよ。生きるために耕す手を、私は描いた。彼らの営みは、誰にも見られず、讃えられない。でも、だからこそ、私はそれを見つめたいと思った。これは私なりの、美なんだ」
ナイルが小さく息をのんだ。「それは、理想とは、違いますね」
ロジェは微笑んだ。「理想は空に浮かぶ星だ。でも写実は、足元の泥に咲く花を見つける行為だ。どちらも、同じくらい遠くて近いんだよ」
ユンは沈黙した。脳裏に、かつて自分が描いた《無名の光》が浮かぶ。あれも、光の中に咲いた小さな命の物語だった。
やがて彼女は、スケッチブックを開いた。いま描きかけの、ひとつの素描——畑の片隅で眠る子どもの絵。
「これ……続きを、描いてもいいですか?」
ロジェは頷いた。「君の“いま”を、描くといい」
ユンは静かに鉛筆を取った。
指がわずかに震える。
何を描けばいいのか、本当に自分に描けるのか、わからないまま——
それでも、逃げない。
理想と現実、そのどちらにも、もう眼を背けたくなかった。
ロジェはふと、ユンのスケッチに目を落とした。
「いい線だ……。だが、まだ“見たまま”をなぞっているように見える」
「なぞっている……?」
「そう。君の目には農夫の姿が映っている。でも、その背中の重み、指のひび割れ、土のにおいまでは――線に届いていない。もし感じたのなら、それを、迷わず線にねじ込むんだ」
ユンは息を呑んだ。その指がわずかに震える。
ナイルが静かに言った。
「線に、感情を刻みつけろ……ってことか。ユン、昔みたいに頭で描くんじゃなくて、心で、な」
ユンは思わず彼の顔を見る。
「ナイル……」
ヴァロワも、目を伏せながら口を開いた。
「ユンは、ずっと“正しさ”を信じて描いてきた。だが今、その“正しさ”を越える絵が必要なんだろう。苦しみや、祈りや、矛盾を……すべて引き受けた線をな」
ロジェはゆっくり頷いた。
「……痛みもまた、美の一部だ。君たちがそれを描けるのなら、この世界も――少しは救われるかもしれない」