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第31話 ロジェの祈りの果て、そして“美しきもの”の誓い


 谷あいの畑に、朝露の光が落ちていた。

雲間から洩れた光が、鋤を握る男の背を淡く照らす。

男は一心にキャンバスへと筆を運んでいた。畑の土を掘る農夫。その背には、穏やかだが確かな威厳が宿っていた——祈る者のように。


「……あなたが、ロジェ・ブランシェル?」


 ユンが声をかけると、画家は筆を止め、ゆっくり振り返った。髭を蓄え、日焼けした顔には皺が刻まれている。だがその目は澄んでいた。怒りも悲しみも、すべて受け入れたような目。


「ええ。で、君たちは?」


 ヴァロワが一歩前に出る。「旅の途中で、あなたの絵を見たのです。村の広場にあった《農夫と火打ち石》。魂を打たれました」


「魂ねぇ……私の絵をそう言ってくれるのは珍しい。写実は退屈だと、よく言われる」


 ユンはその言葉に、心の奥がざらりとした。


(——そんなに、写実がお好きなら、苦しんでる民衆の姿を描いてはどうですか?)


 王立画学園で、自分が吐き捨てたあの言葉がよみがえる。

 当時の自分は、写実を、ただ現実のコピーだと見下していた。だがいま目の前にある絵は、違う。


「この農夫……あなたは、どんな気持ちで描いたのですか?」


 ユンが問うと、ロジェは空を見上げた。


「——祈り、だよ。生きるために耕す手を、私は描いた。彼らの営みは、誰にも見られず、讃えられない。でも、だからこそ、私はそれを見つめたいと思った。これは私なりの、美なんだ」


 ナイルが小さく息をのんだ。「それは、理想とは、違いますね」


 ロジェは微笑んだ。「理想は空に浮かぶ星だ。でも写実は、足元の泥に咲く花を見つける行為だ。どちらも、同じくらい遠くて近いんだよ」


 ユンは沈黙した。脳裏に、かつて自分が描いた《無名の光》が浮かぶ。あれも、光の中に咲いた小さな命の物語だった。


 やがて彼女は、スケッチブックを開いた。いま描きかけの、ひとつの素描——畑の片隅で眠る子どもの絵。


「これ……続きを、描いてもいいですか?」


 ロジェは頷いた。「君の“いま”を、描くといい」


 ユンは静かに鉛筆を取った。

指がわずかに震える。

何を描けばいいのか、本当に自分に描けるのか、わからないまま——


 それでも、逃げない。

理想と現実、そのどちらにも、もう眼を背けたくなかった。


 ロジェはふと、ユンのスケッチに目を落とした。


「いい線だ……。だが、まだ“見たまま”をなぞっているように見える」


「なぞっている……?」


「そう。君の目には農夫の姿が映っている。でも、その背中の重み、指のひび割れ、土のにおいまでは――線に届いていない。もし感じたのなら、それを、迷わず線にねじ込むんだ」


 ユンは息を呑んだ。その指がわずかに震える。


 ナイルが静かに言った。


「線に、感情を刻みつけろ……ってことか。ユン、昔みたいに頭で描くんじゃなくて、心で、な」


 ユンは思わず彼の顔を見る。


「ナイル……」


 ヴァロワも、目を伏せながら口を開いた。


「ユンは、ずっと“正しさ”を信じて描いてきた。だが今、その“正しさ”を越える絵が必要なんだろう。苦しみや、祈りや、矛盾を……すべて引き受けた線をな」


 ロジェはゆっくり頷いた。


「……痛みもまた、美の一部だ。君たちがそれを描けるのなら、この世界も――少しは救われるかもしれない」


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