丘の上の街は、まるで水彩のように滲んでいた。
白い石畳。風に揺れる木漏れ日。陽射しは柔らかく、ユンたち三人の影がのびる。
「こっちさ。風景を描いてるって言ってた」
ナイルの案内で向かったのは、小さな庭園に面したアトリエだった。背を丸めてイーゼルに向かっていた老画家が、ふと顔を上げた。
「ようこそ。旅の画家たちかい?」
彼の名はアレクシ・ルブラン。彼の握るその筆は、瞬間の光や空気をキャンバスに封じ込めることで知られていた。
「描いてるのは……同じ風景なのに、絵によってまるで時間が違うみたい」
ヴァロワが目を細める。
「朝、昼、夕暮れ——ぜんぶ、この窓から見える景色だよ。だけど、色が違えば、心も違うだろう?」
アレクシは笑った。
「光はね、感情なんだ。風も、空も、水面も、毎秒ごとに変わっていく。私たちが描くのは、“物”じゃない。“一瞬”だよ」
「……物じゃなく、一瞬……」
ユンはつぶやいた。彼の描く風景は、どれも揺れていた。固形物の輪郭すら曖昧で、空気に溶けるようだった。なのに、記憶のように、心に残る。
「でも、それだと……何を描いたか、分からなくなりませんか? 写実とは逆の……」
「そう。輪郭はなくなる。でもね、“空気”が残るんだよ」
アレクシはユンの方に向き直った。
「君が描いたスケッチ、見てもいいかい?」
ユンは迷いながらも、一冊のノートを差し出した。ロジェに言われてから、彼女は“痛み”や“におい”を描こうと苦闘していた。
アレクシは目を細め、ゆっくりとページをめくった。
「うん……いい線だ。感じようとしてる。でも、まだ“形”にとらわれてる」
「形に……?」
「見たままじゃなくて、“思ったまま”に描いてごらん。世界を見つめた時、最初に心が動いた場所を、一番濃く塗るんだよ」
ナイルが口を挟んだ。
「色を、心の動きで塗る……か。ユン、お前、朝日の色を、ちゃんと“嬉しかった”色で塗ってみたことあるか?」
ユンは黙ったまま視線を落とした。
その沈黙の先に、アレクシの声が届いた・・・・・・
「かつて、“正しく描け”と言われたことがあるだろう?
でもね……美術は、“正しさ”を超える。君が嬉しかったら、世界は金色に見えるんだ。それを描いていい」
ヴァロワが頷く。
「それは……現実を否定することではない。感じた光を肯定することだな」
「その通り。目ではなく、心のレンズで世界を写す試みさ」
アレクシは、ユンの手の中にスケッチ帳を戻した。
「君は、まだ世界の“色”を決めていない。でも、きっとすぐ見つかる。大切なのは、怖がらずに、自分の“光”を信じることだ」
ユンはその言葉を、まるで陽光のように何度も思い返していた。
——“私の色”で、世界を塗る。
アレクシの風景画が、夕暮れの金色にきらめいた。
風が通り抜けた瞬間、胸の奥で何かが芽吹く音がした。
ユンは、もう一度、絵筆を握りたくなっていた。