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第34話 フィリップ、燃えあがる夜の絵筆


 丘の上の小さな村には、不思議な光が灯っていた。夕闇の中、家々の窓は明るく、空は紺碧のヴェールをまとっていた。ユンたちは、その村の外れにある古びた納屋へと導かれた。


 そこにいたのは、ぼさぼさの赤毛と、情熱の火を宿した瞳を持つ画家——フィリップ・フリュエル。彼のアトリエは、まるで爆発しかけた絵の具箱のようにカラフルで、あらゆる壁に渦巻くような絵が並んでいた。


 「君たちも、絵を描くのか?」


 フィリップはユンのスケッチブックを覗きこみ、そう問いかけた。


 「ええ、少しだけ。でも……あなたの色使いは、どうやっているんですか? こんなに……燃えるような青や黄は、見たことがない」


 「見たことがない? そいつはいいな」

 彼は笑いながら、古びたパレットを取り上げた。


 「僕は、見たことのある世界を描くつもりはない。感じたことを、絵の中で叫ぶんだ。空が悲鳴をあげていたら、青は叫び声になる。枯れた木が夜に耐えていたら、黄は命の灯になる」


 ユンは言葉を失った。写実でもなければ、理想でもない。ただ、感情のほとばしり——。


 「一度、君も叫んでみるといい。美しさを“つくる”んじゃなくて、“ぶつける”んだ」


 その言葉に、ユンの手が震えた。彼女は思わずキャンバスを手に取った。ヴァロワも、彼女の隣で筆を握っていた。


 二人は描いた。

 ユンは、漁村の市場跡——陽が落ち、誰もいなくなった浜辺の魚の影と、空に漂う鳥の羽ばたきを、深い赤と群青で描いた。

 ヴァロワは、家の灯に照らされながらも、扉の前でうずくまる旅人を描いた。傘は壊れ、足元には水たまり。だが、扉の内側から漏れる光に、僅かな希望を忍ばせた。


 フィリップが近寄ってくる。


 「……君たちは、まだ“美しい”ものを探してる。でも、その奥にある“叫び”を見つけられたなら、君の絵は、生きる」


 「叫び……ですか」

 ユンは、かつて個展で誰にも見向きもされなかった夜を思い出していた。何を伝えたいか分からず、ただ“思うがままに”描くことに囚われていた過去を——。


 「絵は、生きてるかどうかが大事なんだ」


 フィリップの背後にある《夜の渦》と名付けられた一枚の絵。丘の上に立つ一本の倒れかけた木、その木の枝先にだけ、奇妙な色の鳥が一羽止まっていた。空はねじれていたが、風が吹いているのが伝わる。


 「僕はいつも怖いんだ。今日、描けなくなるんじゃないかって。でも怖いからこそ、描くしかない」


 ユンは彼の言葉を噛み締めながら、スケッチブックに言葉を走らせた。


 ——美とは、整っているものじゃない。

 ——叫ぶほど、揺れるほど、美しいのだ。


 ヴァロワは、そっと彼女の肩を叩いた。


 「君の絵、今夜は……ちゃんと、声を持っていたよ」


 納屋の天井には、誰かが描いた一筋の線が走っていた。それは星でも光でもない、ただ“筆跡”としか呼べないものだった。

 静かな村に、確かに絵筆の炎が灯っていた。


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