かつてないほど混沌とした路地に、ユンたちは迷い込んでいた。
壁という壁に、異様な絵が描かれていた。人の顔が二つ、身体が断片的に構成され、遠近も光も無視された構図。それなのに、突き刺さるような感情が、そこにあった。
「これは……壊れてる。でも、壊してるのに、訴えてくる……!」
ユンが息を呑んだとき、ひとりの男が現れた。鋭い目と逆立つ黒髪。灰のような衣をまとい、どこか血の匂いがするような存在——パブリス・ド・カルボン。
街では“狂気の手”と呼ばれ、賞賛と恐怖の両方を受けている画家だった。
「感じたな」とカルボンは言った。「なら、君はもう“写実”の牢獄には戻れない」
ヴァロワが静かに尋ねた。「これは……何を描いてる?」
カルボンは壁に描かれた巨大な絵を指した。そこには、叫ぶ馬、砕けた家、泣き叫ぶ子ども、吊られた人物が幾何学的に配置されていた。色はほとんどなく、灰と黒、そして深い赤だけが支配していた。
「爆撃だ。ゲルン村で起きた現実だ。無差別に命が失われ、母は子を抱いたまま焼かれた。祈りも届かず、光すら届かない夜があった。だが、誰もその夜を描こうとしなかった」
カルボンは目を伏せた。
「美しい線で飾って、誰に届く? 芸術は飾りじゃない。“抗うための武器”であっていい」
ユンはその絵から目を離せなかった。形が壊れているのに、感情だけはそのまま伝わってくる。むしろ、壊れているからこそ、見る者に突き刺さる。
「……描いてみたい。わたしにも……あるんです、壊れてしまった記憶が」
カルボンは頷いた。「なら、描け。“伝えるため”ではなく、“叫ぶため”に」
ユンはキャンバスに向かった。だが、何も描けなかった。
「わたしには……何を描けば……?」
ヴァロワがそっと彼女の背中に手を置いた。
「なら、一緒に描こう。ユンの心にある“割れた鏡”を」
二人の筆が走る。まずユンは、割れた窓から差す光を描いた。窓は砕け、その外に街が見える。瓦礫の中で、子どもが影のように立っている。
ヴァロワは、顔のない兵士を描いた。銃の先には蝶が止まり、しかし空は燃えていた。二人の描く断片が、つぎはぎのように一枚の画面に繋がっていく。
カルボンが低く言った。
「……お前たちの絵には、まだ“迷い”がある。だが、それでいい。迷いの中にも、真実はある。見たことのない痛みを、誰かに届けろ」
ユンは描き終えたキャンバスを見つめた。そこにあるのは、美しさではない。だが、確かに、叫びがあった。
「これは……あの日、言葉にできなかったもの」
カルボンは満足げに微笑んだ。
「ようこそ。“真実”の表現へ。ここからが、お前たちの戦いだ」
闇に沈む路地に、ひときわ静かな光が灯っていた。割れた鏡に映るのは、崩れた街と、その中でなお描こうとする者たちの姿だった。