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第36話 色彩の魔術師バルザン、風景を解き放つ


 それは、丘の上の村だった。白壁の家々が並び、橙色の屋根が太陽を反射してまぶしく輝いている。だが、ユンたちがその村の美術市に辿り着いたとき、ひときわ異彩を放つ光景が視界に飛び込んできた。


 壁にかけられた巨大なキャンバス。そこに描かれていたのは、現実とは思えぬほど鮮烈な色彩の風景——空は燃えるような赤、木々はコバルトブルー、草は鮮やかな黄色に染められていた。


「……これは、現実じゃない。でも、なんて自由な……」


 ユンが思わず呟いたその時、背後から声がした。


「美しさとは、目に映るものではなく、心が感じるものだ。君は、どこまで見て、どこまで感じている?」


 振り返ると、派手なストライプのシャツを羽織った老人が立っていた。髪は真っ白で、瞳は子供のようにきらめいている。


「おや、これは失礼。私はバルザン・ラモー。色彩の魔術師と呼ばれているよ」


「……あなたが、あの絵を?」


「もちろんさ。目に映る色など、私には飽き足らん。世界は、もっと激しく、もっと鮮やかに感じられるはずだ。画家とは、ただ風景を写す者ではない。風景を解き放つ者なのだ」


 画商のナイルは、目を輝かせてバルザンに近づいた。


「あなたの色は……ただの技巧ではない。市場を超えた情熱の塊だ。正直言って、売るのが難しい。でも、私はあなたのような絵を世界に見せたいと思っている。商売人としてではなく、一人の美術を信じる者として」


 バルザンは肩をすくめた。


「売れなくてもいい。私の絵は、怒っているのさ。暗い世界、退屈な現実、束縛された目。それをぶち壊したいんだ。私の色彩は、反抗なのだよ」


「素晴らしい……私はこういう絵を待っていた。どうか、あなたの作品を預けていただけませんか?」


「代わりに、君たち三人も描くといい。心の色で、世界を塗ってごらん」


 その日、ユンは市場の広場に腰を下ろし、キャンバスに筆を走らせた。モチーフは「悲しみや痛みの代弁」——顔は描かない。ただ、椅子にかけられた赤いスカーフ、曇り空と、やわらかく差し込む薄明かり。その全てを、現実とはかけ離れた色で彩った。


 一方、ヴァロワは村の墓地を選んだ。だが、そこに描かれたのは、紫に燃える木々、金色の墓標、そして仄かに輝く天使の影だった。


「死の風景でも、色は希望を含んでいる。そう信じたいんだ」


 ナイルはその二人の絵を見て、目を細めた。


「色には理屈はいらない。必要なのは、ただ感じること。そして、突き抜ける勇気だけだ」


 バルザンは彼らの絵に目をやり、にっこりと笑った。


「いいね。君たちも、色彩の魔術師になれる素質があるよ。だが、恐れるな。色が暴れることを、世界が驚くことを。絵は、綺麗なだけじゃない。叫ばせてやるんだ、色そのものに」


 その言葉を胸に、ユンは深く頷いた。


——色は、魂だ。世界を変えるほどの。


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