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第37話 エルムの静けさ、その奥で心が叫ぶ!


 灰色の霧に包まれた、陽の沈まぬ小さな町。音を吸い込むような空気の中、通りには誰の気配もなかった。

 ユンたちは、古い教会跡の地下にあるアトリエを訪れた。


 そこにいたのは、黒衣を纏い、目の奥に深い悲しみをたたえた男。名をエルム・ダールという。


 彼の描く絵は、風景とも人物画ともつかない、不思議な作品だった。

 しかし、そこには確かに「感情」があった。ねじれた街路、無人の食卓、冷たく波打つ空。誰もいないのに、何かが強く訴えかけてくる。


 「……これは、夢ではなく、現実でもない。心の奥で鳴り響いている音の、輪郭です」

 低く落ち着いた声が、アトリエの静寂を揺らした。


 ナイルは、壁に掛けられた一枚の絵の前で、珍しく黙り込んでいた。

 「売れるかどうかは、正直わからない。でも……誰かの“痛み”を、こんなに正直にさらけ出す画家が、この世界に何人いるだろう?」


 「僕は、商人ではなく、人間としてこの絵に魅かれているよ」


 ヴァロワが、遠慮がちに口を開いた。

 「これは……誰かをモデルにしたんですか?」


 エルムは首を振った。

 「これは、かつて旅の途中で見た、霧の湖畔の風景です。しかし、本当に描きたかったのは、私がその時に抱えていた感情です」


 「感情は、形がない。しかし、形がないからこそ、絵にできるのです。見えないから、私たちは描く。それが、沈黙の奥にある“叫び”なんです」


 ユンは静かにキャンバスに向かった。描いたのは、小さな灯台のある岬。薄暮の海、寄せては返す波、遠くを見つめる人影のないベンチ。

 「これは、前に旅先で見た風景です。誰もいなかったのに、なぜか“誰かがいた”ような気がして、離れられなかったんです」


 ヴァロワもまた、筆を取った。

 彼が描いたのは、雨上がりのガラス越しに見える街路。濡れた石畳に映る傘の影、人影はどれもぼやけ、空はまだ泣き止んでいなかった。

 「僕は……誰かとすれ違ったはずなのに、話しかけられなかった。そんな、胸の奥の残響を描いてみた」


 エルムは、しばし沈黙ののち、うなずいた。

 「見たものを描いたのではない。“感じたもの”を、きちんと描いた。恐怖や不安を、形にすることは“弱さ”ではない。それが、唯一の誠実なんです」


 ナイルがふと、アトリエの奥にある絵に目を留めた。

 そこには、広大な湿地に佇む一本の木があった。幹は傾き、枝は天を掴もうとしていたが、どれも折れかけていた。空は青く静かで、ただ風だけが描かれていた。


 「この木……人のように見えるな」

 ナイルの声が珍しく、かすかに揺れていた。


 「私がかつて、深く喪失を感じたとき、心の中に現れた風景です。誰かの死ではなく、自分自身の何かが“死んだ”瞬間を描きました」


 「芸術は、痛みを無視しては成り立たない。描くことでしか、私たちは癒されないし、他者に届かせることもできないのです」


 ユンは、心の奥にずっと押し込めていた問いを口にした。

 「……悲しみや不安を描き続けるのは、辛くないんですか?」


 エルムは、かすかに微笑んだ。

 「辛いです。しかし、描くことで、ようやく“それ”と向き合える。私の絵は、癒すためのものではありません。“沈黙”に気づかせるためのものです」


 ナイルは絵を見つめたまま、ゆっくりと呟いた。

 「……あなたの絵、売れると思います。心をざわつかせる絵は、忘れられない。癒す絵ではなく、揺さぶる絵だから」


 その夜、町を離れる馬車の中で、ユンは描いたばかりの風景画を見つめていた。

 「誰かに伝えるためじゃなくて、ようやく、自分に伝えられた気がする……この静けさの奥で、心が叫んでたことを——」


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