灰色の霧に包まれた、陽の沈まぬ小さな町。音を吸い込むような空気の中、通りには誰の気配もなかった。
ユンたちは、古い教会跡の地下にあるアトリエを訪れた。
そこにいたのは、黒衣を纏い、目の奥に深い悲しみをたたえた男。名をエルム・ダールという。
彼の描く絵は、風景とも人物画ともつかない、不思議な作品だった。
しかし、そこには確かに「感情」があった。ねじれた街路、無人の食卓、冷たく波打つ空。誰もいないのに、何かが強く訴えかけてくる。
「……これは、夢ではなく、現実でもない。心の奥で鳴り響いている音の、輪郭です」
低く落ち着いた声が、アトリエの静寂を揺らした。
ナイルは、壁に掛けられた一枚の絵の前で、珍しく黙り込んでいた。
「売れるかどうかは、正直わからない。でも……誰かの“痛み”を、こんなに正直にさらけ出す画家が、この世界に何人いるだろう?」
「僕は、商人ではなく、人間としてこの絵に魅かれているよ」
ヴァロワが、遠慮がちに口を開いた。
「これは……誰かをモデルにしたんですか?」
エルムは首を振った。
「これは、かつて旅の途中で見た、霧の湖畔の風景です。しかし、本当に描きたかったのは、私がその時に抱えていた感情です」
「感情は、形がない。しかし、形がないからこそ、絵にできるのです。見えないから、私たちは描く。それが、沈黙の奥にある“叫び”なんです」
ユンは静かにキャンバスに向かった。描いたのは、小さな灯台のある岬。薄暮の海、寄せては返す波、遠くを見つめる人影のないベンチ。
「これは、前に旅先で見た風景です。誰もいなかったのに、なぜか“誰かがいた”ような気がして、離れられなかったんです」
ヴァロワもまた、筆を取った。
彼が描いたのは、雨上がりのガラス越しに見える街路。濡れた石畳に映る傘の影、人影はどれもぼやけ、空はまだ泣き止んでいなかった。
「僕は……誰かとすれ違ったはずなのに、話しかけられなかった。そんな、胸の奥の残響を描いてみた」
エルムは、しばし沈黙ののち、うなずいた。
「見たものを描いたのではない。“感じたもの”を、きちんと描いた。恐怖や不安を、形にすることは“弱さ”ではない。それが、唯一の誠実なんです」
ナイルがふと、アトリエの奥にある絵に目を留めた。
そこには、広大な湿地に佇む一本の木があった。幹は傾き、枝は天を掴もうとしていたが、どれも折れかけていた。空は青く静かで、ただ風だけが描かれていた。
「この木……人のように見えるな」
ナイルの声が珍しく、かすかに揺れていた。
「私がかつて、深く喪失を感じたとき、心の中に現れた風景です。誰かの死ではなく、自分自身の何かが“死んだ”瞬間を描きました」
「芸術は、痛みを無視しては成り立たない。描くことでしか、私たちは癒されないし、他者に届かせることもできないのです」
ユンは、心の奥にずっと押し込めていた問いを口にした。
「……悲しみや不安を描き続けるのは、辛くないんですか?」
エルムは、かすかに微笑んだ。
「辛いです。しかし、描くことで、ようやく“それ”と向き合える。私の絵は、癒すためのものではありません。“沈黙”に気づかせるためのものです」
ナイルは絵を見つめたまま、ゆっくりと呟いた。
「……あなたの絵、売れると思います。心をざわつかせる絵は、忘れられない。癒す絵ではなく、揺さぶる絵だから」
その夜、町を離れる馬車の中で、ユンは描いたばかりの風景画を見つめていた。
「誰かに伝えるためじゃなくて、ようやく、自分に伝えられた気がする……この静けさの奥で、心が叫んでたことを——」