陽の沈まぬ国を抜けた先に、不思議な街があった。
空に浮かぶ階段、ねじれた塔、歪んだ影を引く双子の月。重力も論理も、ここでは意味を成さない。
ユンたちが訪れたのは、「アカシウム」という唯一現実を描くことを拒絶した画家のアトリエだった。
彼の名はザグ・ムダリ。オールバックの髪に、螺旋を描く口髭、そして瞳の奥で何かが常に溶けているような男だった。
彼の作品は、たくさんの時計、足の長すぎる象、空中に浮かぶ開いた引き出し、顔のない人々——。
「これは……夢、ですか?」
ユンが訊ねると、ムダリは嬉しそうに片眉を跳ね上げた。
「夢だと思った? だったら、半分正解。これは“無意識が選んだ現実”なんだよ。論理の代わりに、感覚と錯覚で描いた世界だ」
ナイルが、まじまじと一枚の絵を見つめていた。
そこには、広大な砂漠に溶けて垂れ下がる時計がいくつも描かれていた。時間は固体ではなく、液体のように流れ、絡まり、消えていた。
「こいつ……一体、何を売る気なんだ?」
と、苦笑しながらも、ナイルの声には驚嘆の色が滲んでいた。
「時間が崩れる感覚、ってやつだろ?」
ムダリはくるりと踊るように身を翻し、天井に吊られたキャンバスを指さした。
「我々は日々、夢と現実を行ったり来たりしてる。その曖昧な境界こそが、最も“真実”に近い。私はそれを絵にしただけさ」
ユンは思い出すように目を閉じた。
「……昨夜、夢を見ました。何もない場所を歩いているのに、足元には深い海が広がっていて、空には自分の顔が浮かんでいた」
「素晴らしい!」
ムダリは両手を叩いた。
「描いてごらん、その“意味のわからなさ”を。その混沌こそが、おそらく君だけの真実だ」
ユンは筆をとった。
彼女の描いたのは、一輪の青い花だった。だがその花は地面に根を張らず、空から逆さまに吊り下がっていた。茎の先はにじんで消え、そこからぽとぽとと小さな水滴が滴り落ちている。その水滴は地面ではなく、キャンバスの隅に描かれた手のひらに落ち、すぐに蒸発してしまう。
ヴァロワがそれを見つめた。
「ユン、それは……」
「わからないの。ただ……ずっと昔に、なにかを大切に思っていた気がするの。名前も、顔も思い出せないのに、なぜかこの感覚だけは消えなくて」
彼女の声には戸惑いと、わずかな痛みがあった。
パブリオは満足げにうなずいた。
「記憶は、風景になる。風景は、幻想になる。そして幻想は、真実よりも強い」
まるで彼自身が、その言葉の体現者であるかのように、穏やかに笑った。
ヴァロワもまた、筆をとった。
彼が描いたのは、歪んだ風景の中、逆さまになった街の時計塔だった。だがその文字盤には数字がなく、すべて“?”に置き換わっていた。時の流れが曖昧に揺れ、記憶すら疑わしくなるような、不安定な構図だった。
彼の中にもまた、名づけられない想いがあったのかもしれない。
ユンの絵とヴァロワの絵は、まるで合わせ鏡のようだった。
見えているのは違う世界のはずなのに、映し出される感情の波は、どこか似ていた。
ムダリは、二枚の絵に満足げに頷いた。
「君たち、素晴らしいよ。見たものじゃなく、“見えなかったもの”を描いている。それこそが、無意識を描くという、核だ」
ナイルがふと、目を細めた。
「……でもこんな絵、買う人はいるのか? いや、もしかしたら“惹かれてしまう”人は、いるかもしれない。理屈じゃなく、感情で」
ムダリは帽子を取って、胸に当てて言った。
「芸術は売られるために生まれるのではない。けれど、“誰かの夢と響き合う瞬間”があれば、それは最高の取引さ」
その夜、ユンは描いた絵を見つめながら思った。
「私たちは、夢を見るだけじゃない。夢を“覚えている”ことで、自分の深いところに触れられるのかもしれない」
ヴァロワは静かに呟いた。
「夢は、記憶よりも、正直かもしれないな」