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第38話 ムダリの夢に沈む、時間のかけら


 陽の沈まぬ国を抜けた先に、不思議な街があった。

 空に浮かぶ階段、ねじれた塔、歪んだ影を引く双子の月。重力も論理も、ここでは意味を成さない。


 ユンたちが訪れたのは、「アカシウム」という唯一現実を描くことを拒絶した画家のアトリエだった。


 彼の名はザグ・ムダリ。オールバックの髪に、螺旋を描く口髭、そして瞳の奥で何かが常に溶けているような男だった。

 彼の作品は、たくさんの時計、足の長すぎる象、空中に浮かぶ開いた引き出し、顔のない人々——。


 「これは……夢、ですか?」

 ユンが訊ねると、ムダリは嬉しそうに片眉を跳ね上げた。


 「夢だと思った? だったら、半分正解。これは“無意識が選んだ現実”なんだよ。論理の代わりに、感覚と錯覚で描いた世界だ」


 ナイルが、まじまじと一枚の絵を見つめていた。

 そこには、広大な砂漠に溶けて垂れ下がる時計がいくつも描かれていた。時間は固体ではなく、液体のように流れ、絡まり、消えていた。


 「こいつ……一体、何を売る気なんだ?」

 と、苦笑しながらも、ナイルの声には驚嘆の色が滲んでいた。


 「時間が崩れる感覚、ってやつだろ?」

 ムダリはくるりと踊るように身を翻し、天井に吊られたキャンバスを指さした。

 「我々は日々、夢と現実を行ったり来たりしてる。その曖昧な境界こそが、最も“真実”に近い。私はそれを絵にしただけさ」


 ユンは思い出すように目を閉じた。

 「……昨夜、夢を見ました。何もない場所を歩いているのに、足元には深い海が広がっていて、空には自分の顔が浮かんでいた」


 「素晴らしい!」

 ムダリは両手を叩いた。

 「描いてごらん、その“意味のわからなさ”を。その混沌こそが、おそらく君だけの真実だ」


 ユンは筆をとった。

 彼女の描いたのは、一輪の青い花だった。だがその花は地面に根を張らず、空から逆さまに吊り下がっていた。茎の先はにじんで消え、そこからぽとぽとと小さな水滴が滴り落ちている。その水滴は地面ではなく、キャンバスの隅に描かれた手のひらに落ち、すぐに蒸発してしまう。


 ヴァロワがそれを見つめた。

「ユン、それは……」

「わからないの。ただ……ずっと昔に、なにかを大切に思っていた気がするの。名前も、顔も思い出せないのに、なぜかこの感覚だけは消えなくて」

 彼女の声には戸惑いと、わずかな痛みがあった。


 パブリオは満足げにうなずいた。

「記憶は、風景になる。風景は、幻想になる。そして幻想は、真実よりも強い」

 まるで彼自身が、その言葉の体現者であるかのように、穏やかに笑った。


 ヴァロワもまた、筆をとった。

 彼が描いたのは、歪んだ風景の中、逆さまになった街の時計塔だった。だがその文字盤には数字がなく、すべて“?”に置き換わっていた。時の流れが曖昧に揺れ、記憶すら疑わしくなるような、不安定な構図だった。

 彼の中にもまた、名づけられない想いがあったのかもしれない。


 ユンの絵とヴァロワの絵は、まるで合わせ鏡のようだった。

 見えているのは違う世界のはずなのに、映し出される感情の波は、どこか似ていた。


 ムダリは、二枚の絵に満足げに頷いた。

 「君たち、素晴らしいよ。見たものじゃなく、“見えなかったもの”を描いている。それこそが、無意識を描くという、核だ」


 ナイルがふと、目を細めた。

 「……でもこんな絵、買う人はいるのか? いや、もしかしたら“惹かれてしまう”人は、いるかもしれない。理屈じゃなく、感情で」


 ムダリは帽子を取って、胸に当てて言った。

 「芸術は売られるために生まれるのではない。けれど、“誰かの夢と響き合う瞬間”があれば、それは最高の取引さ」


 その夜、ユンは描いた絵を見つめながら思った。

 「私たちは、夢を見るだけじゃない。夢を“覚えている”ことで、自分の深いところに触れられるのかもしれない」


 ヴァロワは静かに呟いた。

 「夢は、記憶よりも、正直かもしれないな」


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