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第39話 クロヴァンの絵になる以前の衝動


 草原に突如として現れた、巨大な黒い布張りのドーム。入り口をくぐった瞬間、外の音は一切消えたように思えた。空間は不思議な静寂に満ち、息づかいさえ絵具に染まるようだった。


そこに立っていたのは、全身に絵具の飛沫を浴びた老人。肌には深い皺が刻まれていたが、目は異様に若く、強い光を宿していた。名は、グロヴァン・イル。キャンバスを床に広げ、その上を歩き、跳ね、全身で描く画家だという。


「おまえたち、まだ“形”にしばられているな」


彼は静かに言った。「形にすがると、真実が見えなくなる。……“絵になる前の衝動”を、聞いたことがあるか?」


ユンは、その言葉を聞いた瞬間、喉が詰まったような感覚を覚えた。心の奥に、何かが引っかかった。


ナイルが、珍しく真剣な表情で言った。


「俺はずっと、絵は“売れるかどうか”で見る人間だった。だが……この男の絵を初めて見た時、正直言って腹が立った。何が描いてあるのか分からないのに、心がざわついた。理由もなく、立ち尽くした。……今では、たぶんあれが“本物”だったんだと思ってる」


ドームの奥、壁一面を覆うように張られた巨大な布。その中央に描かれていたのは、何かを“描いた”というより、色彩の爆発だった。赤、黒、白、金、そして深い青——。線ではなく、勢い。構図ではなく、運動。形ではなく、エネルギーがそこにあった。


「これは……絵なの?」とヴァロワが呟いた。


グロヴァンは答えず、手元の棒で黒の絵具をすくい、床に投げ落とした。飛沫が、白いキャンバスに散った。


「この一滴が、言葉よりも多くのことを語るかもしれん。意味を描こうとするな。意味はあとから、見る者の中で勝手に生まれる」


彼の声は低く、だが芯があった。


「抽象画とは、目に見えるものを描くのではない。色、形、線、そして筆触を通して、内面の感情や衝動を描き出す。見る者によって、感じるものも、意味もすべて変わる。だからこそ、自由で……恐ろしくもある」


ユンは、震える手で筆をとった。しかし、その筆をキャンバスに運ぶことはなかった。代わりに、バケツに入った群青の絵具をそのままキャンバスに垂らした。


絵具は流れ、跳ね、波打つ。彼女は床に膝をつき、両手で絵具を広げ、布の上を這わせた。筆ではなく、腕と指と息遣いで、彼女は自分の奥底にある衝動をぶつけていた。


「私は……ずっとこういうのを描きたかった。でも、“なにを描いてるの?”って聞かれるのが怖くて……言葉にならないものは、描いても認められないと思ってた」


その言葉に、ヴァロワも黙って、手の中の墨を絞り出すように筆を滑らせる。そこに意味はなかった。ただ、繰り返すリズムだけがあった。


「これは夢の中で見た、音のない雨。誰もいない駅で、時間だけがぐにゃぐにゃに曲がっていた」


彼は静かに呟いた。


グロヴァンは、ユンの絵を見つめ、静かに頷いた。


「いい絵だ。“君”がいない。けれど、“君の内側”はある。そこからしか、本当の絵は生まれない」


ナイルは少し口ごもってから、言葉を選ぶように話した。


「買いたい奴は限られてる。……だが、刺さる人間には深く刺さる。そういう絵は、金じゃ測れない価値を持つ」


夜。ドームを出てもなお、ユンの手には絵具の感触が残っていた。


「描くって、こんなに自由で、怖くて、気持ちいいんだ……」


そのつぶやきは、かすかな笑みとともに、夜風の中へと溶けていった。


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