大陸を巡る長い旅の終わりが、ようやく見えてきた。
かつて、名もなき絵描きだったユンは、いまや各地で囁かれる存在となっていた。写実主義の都でも、ロマン派の山間でも、前衛芸術の路地裏でも・・・・・・彼女の絵は議論を巻き起こし、模倣され、賛否を浴びながら人々の記憶に焼きついていった。
「君のこと、知らない奴の方が珍しいよ」
とナイルは言う。
「あちこちで“魂を描く娘”だとか、“狂った筆の乙女”だとか、好き勝手な呼び方されてる」
「ふふ……良いことじゃないか」
とヴァロワが笑う。
「あの頃、僕らの絵に目を留める者なんていなかったのに」
かつての王立画学院を思い出す。教官たちの冷たい視線、嘲り、そして無理解。だが、いまや彼女の前には、幾千のキャンバスが広がっていた。
そして・・・・・・ついに、招待が届いた。
帝国中央芸術院 特別展覧会「境界の画家たち」
そこに選ばれた画家の一人として、ユンの名が正式に掲載されたのだ。
展覧会の会場は、首都エル・ヴァルナの黄金大聖堂の回廊。
ユンの展示室には、旅のすべてを結晶化させたかのような巨大な作品が並んでいた。
《声なき者の肖像》──ジャン=のように、大地に生きる人々を描いた。
《夜の叫び》──フィリップの炎とともに、心の奥底からほとばしる色彩をぶつけた。
《静止した風景のなかで、少女は踊る》──カルボンを思わせる構図の歪みと再構築。
《反復される夢》──ポーノから学んだ、大衆と芸術の境界線の否定。
そのどれもが、ある画家との出会いがなければ生まれなかった絵だった。
だが、一番奥。中央に飾られた一枚の絵は、どこにも属していなかった。
《名もなき日々》
かつて、誰にも見向きもされず、ただ椅子に座って一人きりだった、あのギャラリーの記憶。
木漏れ日と、埃っぽい陽射しと、床に落ちた絵筆。
そして、あの頃の彼女自身。
静かな部屋で、誰にも届かないまま、ただ“描きたい”だけだったあの日の自分。
恐れも迷いも全部、あの日の記憶の中に置いてきた。
ユンは静かに言った。
「これが、私そのもの。技術でも流派でもなくて、記憶と願いと、希望だけで描いたの」
展覧会初日、作品は賛否両論を巻き起こした。
「素晴らしい」「理解不能だ」「革新的だ」「こんなのは芸術じゃない」
だがその夜、会場には異様な熱気が残った。
普段は社交辞令で終わるはずの会話が、白熱した議論へと変わり、
人々は時間を忘れて作品の前に立ち尽くした。
翌日には、ユンの絵の前に行列ができ、三日後には模写が路地で売られ、五日後には貴族たちが模倣した作品を自邸に飾り始めた。
ユンは、ついに「異世界で超有名な画家」になったのだ。
ナイルは呟く。「……火が、ついたな」
ヴァロワは微笑む。「だが、彼女は炎じゃない。風だよ。燃え尽きるんじゃなく、吹き抜けていく」
そしてユンは、新しい筆を手にする。
それは、これまでの誰の影響も受けていない、まっさらな一本だった。
「描くよ、私だけの絵を。
風のように、燃え上がらず、ただ吹き抜けるように・・・」