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第41話 炎のように描け、風のように笑え


 大陸を巡る長い旅の終わりが、ようやく見えてきた。


 かつて、名もなき絵描きだったユンは、いまや各地で囁かれる存在となっていた。写実主義の都でも、ロマン派の山間でも、前衛芸術の路地裏でも・・・・・・彼女の絵は議論を巻き起こし、模倣され、賛否を浴びながら人々の記憶に焼きついていった。


「君のこと、知らない奴の方が珍しいよ」

 とナイルは言う。

 「あちこちで“魂を描く娘”だとか、“狂った筆の乙女”だとか、好き勝手な呼び方されてる」


 「ふふ……良いことじゃないか」

 とヴァロワが笑う。

 「あの頃、僕らの絵に目を留める者なんていなかったのに」


 かつての王立画学院を思い出す。教官たちの冷たい視線、嘲り、そして無理解。だが、いまや彼女の前には、幾千のキャンバスが広がっていた。


 そして・・・・・・ついに、招待が届いた。


 帝国中央芸術院 特別展覧会「境界の画家たち」


そこに選ばれた画家の一人として、ユンの名が正式に掲載されたのだ。


展覧会の会場は、首都エル・ヴァルナの黄金大聖堂の回廊。

ユンの展示室には、旅のすべてを結晶化させたかのような巨大な作品が並んでいた。


《声なき者の肖像》──ジャン=のように、大地に生きる人々を描いた。

《夜の叫び》──フィリップの炎とともに、心の奥底からほとばしる色彩をぶつけた。

《静止した風景のなかで、少女は踊る》──カルボンを思わせる構図の歪みと再構築。

《反復される夢》──ポーノから学んだ、大衆と芸術の境界線の否定。


 そのどれもが、ある画家との出会いがなければ生まれなかった絵だった。

だが、一番奥。中央に飾られた一枚の絵は、どこにも属していなかった。


 《名もなき日々》


 かつて、誰にも見向きもされず、ただ椅子に座って一人きりだった、あのギャラリーの記憶。

木漏れ日と、埃っぽい陽射しと、床に落ちた絵筆。

そして、あの頃の彼女自身。


  静かな部屋で、誰にも届かないまま、ただ“描きたい”だけだったあの日の自分。

恐れも迷いも全部、あの日の記憶の中に置いてきた。


 ユンは静かに言った。

「これが、私そのもの。技術でも流派でもなくて、記憶と願いと、希望だけで描いたの」


 展覧会初日、作品は賛否両論を巻き起こした。


 「素晴らしい」「理解不能だ」「革新的だ」「こんなのは芸術じゃない」


 だがその夜、会場には異様な熱気が残った。

 普段は社交辞令で終わるはずの会話が、白熱した議論へと変わり、

人々は時間を忘れて作品の前に立ち尽くした。


翌日には、ユンの絵の前に行列ができ、三日後には模写が路地で売られ、五日後には貴族たちが模倣した作品を自邸に飾り始めた。


 ユンは、ついに「異世界で超有名な画家」になったのだ。


 ナイルは呟く。「……火が、ついたな」


 ヴァロワは微笑む。「だが、彼女は炎じゃない。風だよ。燃え尽きるんじゃなく、吹き抜けていく」


 そしてユンは、新しい筆を手にする。

それは、これまでの誰の影響も受けていない、まっさらな一本だった。


「描くよ、私だけの絵を。

風のように、燃え上がらず、ただ吹き抜けるように・・・」


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