蒸し暑い夏の夜。
廃工場跡に仮設されたアトリエの片隅で、ユンは筆を止めた。
薄暗い裸電球の光が、乾きかけた絵の表面を柔らかく舐める。壁の向こうからは、夜虫の声が絶え間なく響き、時折、遠くを走る貨物列車の音が混ざった。
キャンバスの前で佇むナイルが、肩越しに振り向く。
「……色、変えたんだね」
「うん。赤じゃなくて、こっちにした」
彼が指さしたのは、橙と灰が幾層にも重なった部分だった。薄い光の膜のようで、見る角度によって温度が変わる。
「赤にしたら……なんか、ユンが怒ってる気がして」
ユンは、わずかに笑みを浮かべてから、小さく首を傾げた。
「怒ってたのかな、私……」
筆を水差しに沈めると、水面がゆらりと揺れる。
「怒ってたっていうか、不安だったのかも。ナイルが私の絵を売ってくれてるってこと、ありがたいはずなのに……どこかで“勝手に一人歩きしてる”って感じてた」
ナイルは椅子を引き、ユンの隣に腰を下ろした。
外の湿気と、二人の間に流れる熱が混ざり合い、空気が重くなる。
「でも、それって嬉しいことじゃない? 誰かがユンの絵を欲しいって思ってくれるって」
「うん、嬉しい。……でも怖いの。
私が知らない誰かの部屋で、私の祈りが黙って飾られてるって。
意味なんて読み取られなくても、ただ“映える”って理由で壁に掛けられるのが、すごく」
ナイルは真剣なまなざしを向けた。
「俺は、そんな風に売ってないよ。“この絵には魂がある、持ち主を試すような目をしてる”って……ちゃんと伝えてる。
「ユンの絵は、ただの美術品じゃない。真冬の焚き火みたいなもんだ。近くにいれば温まるけど、触れすぎれば火傷する。それくらいの力がある」
「……それ、本気で言ってる?」
「本気だ。ユンの絵、俺の人生を変えたからな。
俺、ただの画商としてしか見られてなかった。でもユンの絵に出会って……売ることの意味が変わった。
誰かの“叫び”を、ちゃんと届けるってことなんだって」
ユンは黙ってナイルの手に触れた。
指先がかすかに汗ばんでいる。
ナイルは、その手をしっかりと包み込む。
「そばにいたい。描く人としてじゃなくて……生きる人として、君の隣に」
ユンは、少し間を置いてからうなずいた。
「……じゃあ、売れた後も、いてくれる?」
「もちろん」
——その約束の言葉が、湿った夜気の中に溶けた。
一方そのころ、王都近郊の隠れ家。
額縁やパネルが無造作に積み上げられた部屋で、ミレイユはヴァロワの新作を見つめていた。
古い天窓から差し込む月光が、絵の表面を銀色に撫でる。
「……これでいくつめ? この主題。もう少し“新しい構図”を考えてもいいと思うんだけど」
ヴァロワは肩をすくめて笑う。
「やっぱり君は厳しいね、ミレイユ」
「私はキュレーターよ。作品の印象なんて、並べ方一つで変わるの。絵そのものの魅力だけで勝負できる時代じゃないわ」
そう言って、彼女はキャンバスを少し傾ける。
視線が変わると、そこに潜んでいた柔らかな色調が浮かび上がった。
「それに……解説を書く人間としても言わせてもらうけど、最近のあなたの作品、ちょっと“言葉を拒んでる”気がするの。
私はあなたの中にある柔らかさ、ちゃんと見たいんだけどな」
ヴァロワはしばらく黙り、やがて目を伏せた。
「……俺は君が好きだよ。絵の角度を指摘してくるところも、展示の並びに文句をつけるところも、全部」
「……はあ? そういうの、いきなり言うの反則だって分かってる?」
「分かってる。でも、今言わないと逃げられそうで」
ミレイユは短く息を吐き、口元に笑みをにじませた。
「……ほんと、詩人ぶりたいなら、もっと絵に出しなさいよ。
私はあなたの絵の“額”だけじゃなく、言葉でも守ってあげる。だから……素直になってもいいのよ?」
彼女はそっとヴァロワの肩に寄り添った。
月明かりが二人を包み、額縁の山が静かに影を落とす。
——夜が明ける。
誰かの筆が、新しい朝を描く。
革命は、キャンバスの上だけではない。
支える者たちの静かな手からもまた、確かに始まっていた。