目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第44話 残響する批評


 地方都市の美術館。その一角で開かれた現代絵画展は、オープニングから多くの来場者で賑わっていた。

 壁には色彩もテーマも異なる新進作家たちの作品が並び、その中でユンの大作は、天井から降り注ぐ光を受けて静かに佇んでいた。


 ユンは少し離れた位置から、自分の絵の前に立つ人々の表情を観察していた。

 皺を寄せてじっと見つめる中年の男性、スマホで写真を撮り合う若いカップル、何度も作品とキャプションを見比べる女性——反応はさまざまだが、確かに“立ち止まらせて”いる。


 ナイルは会場入口で来場者にカタログを配り、作品の簡単な説明をしている。

 いつもの柔らかい笑顔は、場の緊張をほぐす空気のようだ。

 ヴァロワは相変わらず飄々ひょうひょうとした態度で、別の作家たちとワイン片手に談笑していた。


 そのとき、場の空気が少しだけ変わった。

 背筋を伸ばし、黒いロングコートを着た細身の男が静かに入ってきたのだ。

 灰色の瞳は曇りのない氷のようで、歩く速度は遅いのに、周囲の視線を奪っていく。

 ——カロンだ。首都でもっとも影響力のある美術評論家。

 彼は一切の挨拶もせず、ただ無言で作品の前に立ち、数十秒見つめてはメモを取る。

 ユンの前も通りかかったが、立ち止まった時間はわずか十数秒。表情は読み取れない。

 「見られた」という事実だけが、妙に重く胸に残った。


 夕暮れ、展示を終えたユンとヴァロワは、ホテルのロビーラウンジで遅い夕食を取った。

 外は冬の初めらしい冷え込みで、窓ガラスが白く曇っている。

「悪くない出だしだな」ヴァロワがワインをくるくると回す。

「うん……思ってたより、見てもらえてる気がする」

 ユンも珍しく微笑んだ。緊張で固くなっていた肩が少しほぐれる。


 しかし、その安堵は翌朝、あっけなく崩れ去った。


 朝食の席で、ナイルが一枚の新聞を持ってきた。表情は硬く、声もやや低い。

「……これ、見た方がいい」

 ユンとヴァロワの名前が、大きな見出しの下に並んでいる。

 執筆者は——昨日のあの男、カロン。


技術は確かだ。

しかし、魂は借り物。

ユンの描く「祈り」は、どこかで見た既製品の感情を巧みに模倣しているにすぎない。

感動を強いる構図、整えられすぎた色彩。その整合性は、逆に生気を奪っている。


 紙面の黒い文字が、氷のようにユンの指先を冷やした。

 さらに視線を下げると、ヴァロワについての一節が現れる。


構図は魅力的だ。しかし商業的な媚びが透けて見える。

観客を引き込み、売るための計算が、筆跡にまで滲み出ている。

技巧は本物だが、激情は安全な檻に閉じ込められている。


 ナイルが気遣うように口を開く。

「……この人、容赦ないことで有名なんだ。でも、それだけ注目されてるってことでもある」


「注目……ね」

 ユンの声はかすれていた。

 痛烈な批評ではあるが、全てを否定してはいない。

 「技術は確かだ」という書き出しが、皮肉であると同時に、どこか承認にも聞こえた。


 ヴァロワは新聞をくしゃりと畳み、低く笑った。

「まあ、嫌われたってことは、覚えられたってことだ」


「そんな簡単に言える?」ユンは顔を上げる。

「お前はこれからもっと描くんだろ? だったら批評なんて肥やしだ。……俺も同じだ」

 ヴァロワはそう言うと、冷めかけたコーヒーを一息で飲み干した。


 窓の外では、朝靄がゆっくりと晴れ、石畳の街路が薄く輝き始めている。

 ユンは外を見やりながら、胸の奥でカロンの言葉を何度も反芻していた。

 ——借り物の魂。

 本当にそうなのだろうか。もしそうなら、自分の中の「本物」はどこにある?


 昨日、絵の前で立ち止まったカロンの横顔が脳裏に蘇る。

 氷のような瞳は、飾りも慰めも拒むようだった。

 その視線にもう一度、胸を張って向き合うためには——もっと深く、もっと痛いほど自分を描かねばならない。


 その問いと決意は、冷たい痛みと共に、静かに、しかし確かに、ユンの心に火を灯していた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?