地方都市の美術館。その一角で開かれた現代絵画展は、オープニングから多くの来場者で賑わっていた。
壁には色彩もテーマも異なる新進作家たちの作品が並び、その中でユンの大作は、天井から降り注ぐ光を受けて静かに佇んでいた。
ユンは少し離れた位置から、自分の絵の前に立つ人々の表情を観察していた。
皺を寄せてじっと見つめる中年の男性、スマホで写真を撮り合う若いカップル、何度も作品とキャプションを見比べる女性——反応はさまざまだが、確かに“立ち止まらせて”いる。
ナイルは会場入口で来場者にカタログを配り、作品の簡単な説明をしている。
いつもの柔らかい笑顔は、場の緊張をほぐす空気のようだ。
ヴァロワは相変わらず
そのとき、場の空気が少しだけ変わった。
背筋を伸ばし、黒いロングコートを着た細身の男が静かに入ってきたのだ。
灰色の瞳は曇りのない氷のようで、歩く速度は遅いのに、周囲の視線を奪っていく。
——カロンだ。首都でもっとも影響力のある美術評論家。
彼は一切の挨拶もせず、ただ無言で作品の前に立ち、数十秒見つめてはメモを取る。
ユンの前も通りかかったが、立ち止まった時間はわずか十数秒。表情は読み取れない。
「見られた」という事実だけが、妙に重く胸に残った。
夕暮れ、展示を終えたユンとヴァロワは、ホテルのロビーラウンジで遅い夕食を取った。
外は冬の初めらしい冷え込みで、窓ガラスが白く曇っている。
「悪くない出だしだな」ヴァロワがワインをくるくると回す。
「うん……思ってたより、見てもらえてる気がする」
ユンも珍しく微笑んだ。緊張で固くなっていた肩が少しほぐれる。
しかし、その安堵は翌朝、あっけなく崩れ去った。
朝食の席で、ナイルが一枚の新聞を持ってきた。表情は硬く、声もやや低い。
「……これ、見た方がいい」
ユンとヴァロワの名前が、大きな見出しの下に並んでいる。
執筆者は——昨日のあの男、カロン。
技術は確かだ。
しかし、魂は借り物。
ユンの描く「祈り」は、どこかで見た既製品の感情を巧みに模倣しているにすぎない。
感動を強いる構図、整えられすぎた色彩。その整合性は、逆に生気を奪っている。
紙面の黒い文字が、氷のようにユンの指先を冷やした。
さらに視線を下げると、ヴァロワについての一節が現れる。
構図は魅力的だ。しかし商業的な媚びが透けて見える。
観客を引き込み、売るための計算が、筆跡にまで滲み出ている。
技巧は本物だが、激情は安全な檻に閉じ込められている。
ナイルが気遣うように口を開く。
「……この人、容赦ないことで有名なんだ。でも、それだけ注目されてるってことでもある」
「注目……ね」
ユンの声はかすれていた。
痛烈な批評ではあるが、全てを否定してはいない。
「技術は確かだ」という書き出しが、皮肉であると同時に、どこか承認にも聞こえた。
ヴァロワは新聞をくしゃりと畳み、低く笑った。
「まあ、嫌われたってことは、覚えられたってことだ」
「そんな簡単に言える?」ユンは顔を上げる。
「お前はこれからもっと描くんだろ? だったら批評なんて肥やしだ。……俺も同じだ」
ヴァロワはそう言うと、冷めかけたコーヒーを一息で飲み干した。
窓の外では、朝靄がゆっくりと晴れ、石畳の街路が薄く輝き始めている。
ユンは外を見やりながら、胸の奥でカロンの言葉を何度も反芻していた。
——借り物の魂。
本当にそうなのだろうか。もしそうなら、自分の中の「本物」はどこにある?
昨日、絵の前で立ち止まったカロンの横顔が脳裏に蘇る。
氷のような瞳は、飾りも慰めも拒むようだった。
その視線にもう一度、胸を張って向き合うためには——もっと深く、もっと痛いほど自分を描かねばならない。
その問いと決意は、冷たい痛みと共に、静かに、しかし確かに、ユンの心に火を灯していた。